サム・スティムボート
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| サム・スティムボート | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム |
サム・スティムボート サミー・スティムボート |
| 本名 | サミュエル・モクアヒ・ジュニア |
| ニックネーム | 褐色の豹[1] |
| 身長 | 180cm[1] |
| 体重 | 104kg[1](全盛時) |
| 誕生日 | 1934年5月4日 |
| 死亡日 | 2006年5月2日(71歳没) |
| 出身地 |
|
| トレーナー | ルー・テーズ[2] |
| デビュー | 1956年[3] |
サム・スティムボート(Sam Steamboat、本名:Samuel Mokuahi, Jr. 、1934年5月4日 - 2006年5月2日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ハワイ州マウイ島出身[1]。
先住ハワイアンのベビーフェイスとして、地元のハワイやフロリダを主戦場に活躍した[1][4]。
リッキー・スティムボートはサムの「甥」という触れ込みのもと、彼にあやかったリングネームでデビューしたが、両者の間に血縁関係はない[2][5]。
ルー・テーズに見出され[2]、テーズの一番弟子として[1]1956年にハワイにてデビュー[3]。ハワイの現地語で「汽船」(燃える島)を意味する本名の "Mokuahi" を英名に変えたサム・スティムボート(Sam Steamboat)をリングネームに[5]、翌1957年からはアメリカ合衆国本土のテキサスにも進出[3]。以降、ハワイとアメリカ大陸を往復し、1961年1月25日にはディック・ハットンからNWAハワイ・ヘビー級王座を奪取した[6]。
その後、デトロイトやカナダのトロントなどを経て、1964年よりフロリダに参戦。フェイスターンしていたエディ・グラハムのパートナーとなり、同年6月23日にNWAフロリダ・タッグ王座を獲得する[7]。11月には単身でWWWFにも出場しており、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおける同月16日の定期戦ではボリス・マレンコから勝利を収めた[8]。以降もグラハムとのコンビでジョージア、ノースカロライナ、テキサス、テネシーなど各地を転戦。テネシーでは1966年の初頭に、ヒロ・マツダ&カンジ・イノキの日本人コンビとNWA世界タッグ王座を争った[9]。
1966年5月、日本プロレスにグラハムと共に初来日[10]。6月18日に川崎球場にて、凱旋帰国したヒロ・マツダと吉村道明が保持していたアジアタッグ王座に挑戦した[11]。翌1967年7月には、マツダがエースを務めていた国際プロレスの旗揚げ第2シリーズに単身で再来日。このときは手薄だった日本陣営に加わり、マツダや豊登を援護している[12]。8月14日に大阪で行われた日本プロレスとの興行戦争では、大阪府立体育館のメインイベントでマツダと組み、ビル・ドロモ&ロジャー・カービーから勝利を収めた[13]。
グラハムとのコンビ解消後、1968年からはノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区にてミスター・レスリングとのタッグチームなどで活動。1970年代に入ると再びハワイを主戦場に、1971年2月24日にカーティス・イヤウケア、9月29日にジン・キニスキー、1972年9月27日にフレッド・ブラッシーを破り、ハワイ版のNWA北米ヘビー級王座を再三獲得した[14]。
同王座は1972年11月25日にダスティ・ローデスに奪われるが、以降もハワイでの活動を続け、キャリア晩年の1977年9月28日、ジョン・トロスを破って4度目の戴冠を果たし、12月にキラー・トーア・カマタに敗れるまで王者として活躍した[14]。