サリクタイ
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サリクタイの出自については不明な点が多いが、「コルチ(qorči)」という称号から元来はケシク(親衛隊)の一員であったと見られている[1]。
1228年、遼東方面で金朝の平章ジェブゲ(哥不靄)が活動を始めたことなどを理由に、即位前のオゴデイの命によりサリクタイは遼東方面に派遣された[2]。史料上には明記されていないものの、この時サリクタイが率いていたのはタンマチ(タマ軍)であったと考えられている[3]。1229年にはチンギス・カンの頃から活躍しており、実戦経験豊富なサルジウト部のウヤルも麾下に加え、蓋州・宣城など遼東の諸城を攻略した[4]。
更に1231年秋、高麗がかつてモンゴルの使者を殺害したことの報復を理由として、サリクタイは高麗への侵攻を命じられた[5]。サリクタイ率いる遠征軍は現地の有力者の洪福源と合流し[6]、まずは鴨緑江沿いの咸新鎮・鉄州を攻略した[7]。
10月に安北府の戦いで勝利したサリクタイ率いるタンマチ(タマ軍)は年末には早くも首都の開京を包囲し、高麗に対し降伏勧告を行った[8]。その後も何度か使者のやり取りが行われ[9][10][11]、1232年初には高麗の降伏が決まった。
しかし、同年秋には早くも高麗はモンゴルに叛旗を翻し、再びサリクタイが軍を率いて高麗に侵攻することとなった。水州の処仁城を攻めていた時、サリクタイは流れ矢に当たり戦死してしまった(処仁城の戦い)[12][13]。サリクタイの死によってモンゴル軍の副将のテゲの指揮の下撤退したが、この後もタングート・バートルを司令官として高麗への攻撃は続けられることとなった[14]。