安北府の戦い
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高麗は1219年の江東城の戦い以降、モンゴル帝国と兄弟の盟約を結んで歳貢を納めていた。しかし、1225年に帰国途中のモンゴル使臣が、鴨緑江近辺で何者かに殺害されると国交が断絶された。1229年に即位したモンゴルの新帝オゴデイ・カアンは、使者殺害の罪を問うという名分のもと、サリクタイ・コルチ率いる一軍を高麗へ派遣した。
1231年8月下旬に鴨緑江を渡り高麗領内に侵攻したモンゴル軍は、短期間で義州・龍州・鉄州を攻略した。モンゴル軍の先鋒隊は、亀州や慈州など抵抗の激しい城は残したまま南下を急ぎ、9月10日に西京、9月14日には黄州・鳳州にまで到達する。
高麗の兵制では、38領3万8000人の保勝軍・精勇軍の中から三軍を編成して有事にあたることになっていた[1]。高麗朝廷の実権者である崔瑀は、9月2日に三軍の進発を決定。大将軍の蔡松年を北界兵馬使に任命し、諸道の兵を招集させた。更に馬山の草賊から精兵5000人、冠岳山の草賊から賊魁5人と精鋭50人も高麗軍に加わった。
9月下旬、三軍は黄州の洞仙駅でモンゴル軍の先鋒隊を撃破して北上した。一方、サリクタイ率いるモンゴル軍本隊も、9月29日に宣州・郭州を攻略して南下する。