サンド・アイランド収容所
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サンド・アイランド収容所 (Sand Island Internment Camp) とは、第二次世界大戦中、ハワイ州オアフ島のホノルル港にある小島サンド・アイランドに設置された収容所。
1941年12月8日の日本軍の真珠湾攻撃以降、第五列として拘束された日系、ドイツ系、イタリア系住民・移民を抑留するためのアメリカ陸軍管轄の強制収容所として使われた。その後、1945年の沖縄戦で戦争捕虜の捕虜収容所として使用された。



1868年、ホノルル湾にある小島に、伝染病に感染した疑いのある船の乗客を隔離するための検疫所がもうけられ、当時は検疫島 (Quarantine Island) とよばれた[3]。
1898年8月12日、ハワイがアメリカに併合され準州になると、さらにホノルル湾は砂糖をアメリカに輸出する拠点となり、1906年頃、アメリカ陸軍工兵隊はさらに検疫島を拡大した[1]。
米連邦政府は早くから軍事拠点としてホノルル湾に目星をたてていたが、1941年12月7日(現地時間)の真珠湾攻撃とジョセフ・ポインデクスター知事の戒厳令を契機にして、米軍は翌日8日にサンド・アイランド島を強制接収した。
強制収容所: 連邦捜査局による市民の大量拘束は1941年12月7日の戒厳令宣言の直後から宣言の直後に始まり、島に送られた。1943年3月には収容者はホノウリウリ収容所や本土の収容施設に送られた。
捕虜収容所: 1944年9月に捕虜収容所として開設され、イタリア人捕虜、朝鮮人捕虜、沖縄人捕虜が収容された[4]。
1945年、軍が港湾をハワイ準州に返還する。島の灯台周辺にアメリカ沿岸警備隊のホノルル基地が設置される。
今日、サンドアイランドには、州のレクリエーションエリア、米国沿岸警備隊の基地、廃水処理施設などがある。ほとんど収容所時代の構造物が残っておらず、ホノウリウリ収容所のように国定史跡として指定されることは難しいと考えられる[5]。
強制収容所
1941年12月8日(現地時間)、米陸軍はホノルル港の検疫病院にサンド・アイランド抑留施設を設立した。拘束された約1,250人の日系アメリカ人は、この強制収容所に15ヶ月間収容された。施設は4区域(コンパウンド)に分けられ、2つは計500人の日系男性、1つは40人の日系女性を収容し、また1つは25人のドイツ系とイタリア系の住民を収容した[6]。
12月10日までの3日間で、FBIは43人のアメリカ国籍を有する市民を含む計493人の民間人を拘束した。そのなかには仏教の僧侶やジャーナリストや日本語学校の教師などが多く含まれていた。検疫病院にこれほどの人数を収容することはできず、人々は床板のない野外テントで悪天候に晒され、特に最初の2週間はひどく劣悪な状態にあった[4]。
例えば日系二世の医師 Kazuo Miyamoto は真珠湾攻撃12月7日にフォート・シャフターに呼び出され負傷者の治療を行ったあと自宅に帰り、その夜 FBI によって拘束され、サンド・アイランドに連行された。その後、最初の日本軍捕虜一号の酒巻和夫と共に本土に移送され、キャンプ・マッコイ収容所などを転々とした後に、再びサンド・アイランドに収監された。またその後、1943年11月に家族ごと本土のジェローム収容所に移されている[7]。また収容された「敵性外国人」のなかには、ナチスの迫害を逃れオーストリアのウィーンからアメリカに移住したユダヤ系アメリカ人の建築家、アルフレッド・プライスもいた[8]。
ハワイの日系新聞、日布時事社長の相賀安太郎 渓芳(相賀渓芳)は現地時間12月7日の夜に拘束され、ごった返すホノルルの入国管理局から対岸のサンド・アイランドに送られた。1942年8月7日に第五回目の本土移送としてエンジェル島に送られ[9]、ニューメキシコ州ローズバーグ・キャンプとサンタフェ・キャンプに拘留され、1945年10月30日に解放されてハワイに戻った。彼の収容所の記録は『鉄柵生活』[10] (Life Behind Barbed Wire[11]) として1948年に出版された。
収容者の米国本土の施設への移送は1942年2月に始まり、1943年3月の閉鎖まで続いた。その時点までに、ハワイ諸島中から600人以上の地元住民がサンド・アイランドを通過してキャンプ・マッコイなど本土の収容所に移送され、また1943年3月から149人の収容者が新設のホノウリウリ収容所に移送された[4]。


