サーイド・アンダルスィー

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サーイド・アンダルスィーṢāʿid al-Andalusī、1029年生-1070年歿)は、イスラーム期のイベリア半島で活動した文人[1]。生涯の最後にカーディー職に就いていたため「裁判官サーイド」の通称で知られる(#生涯)。科学者の人名辞典『タバカート』という著作で有名(#著作)。

詳しい名前は、アブー・カースィム・サーイド・イブン・アフマド・イブン・アブドゥッラフマーン・イブン・ムハンマド・イブン・サーイド・イブン・ワースィク・アンダルスィーという[2]。晩年に裁判官(カーディー)を務めたので「カーディー・サーイド」とも呼ばれる[1][2]コルドバに移住したアラブ部族であるバヌー・タグリブ又はバヌー・サァラバに連なる家系の生まれである[2]。祖父のアブー・ムタッリフ・アブドゥッラフマーンはシドニアでカーディー職を務めた人物[1][2]。父のアフマドもコルドバのカーディーであった[2]。サーイド・アンダルスィーは、内乱でコルドバが壊滅状態になった時代のヒジュラ暦420年(西暦1029年)、父が家族を伴ってアルメリアに避難していた際に生まれた[2]

アルメリアで教育を受け始め、(イブン・バシュクワールによれば)コルドバでイブン・ハズム(1064年歿)に教えを受けた[1]。その後、トレドで学問を修めた[1][2]。サーイドの著書『タバカート』の記述によれば、サーイドは若いころ、知識を求めて諸地域を旅することを好んだという[2]。サーイドの学問の師とされるのは、前述のイブン・ハズムのほか、イブン・ワッカースィー(1095年又は1096年歿)、アブー・ムハンマド・カースィム・イブン・ファトフ(1059年歿)、イブン・ハミース(1063年歿)、アブー・イスハーク・イブラーヒーム・イブン・イドリース・トゥジービー(1062年歿)の名前が挙げられている[2]。しかし、確かに師弟関係であったと言える証拠があるのはイブン・ワッカースィーとイブン・ハミースに限られる[2]。イブン・ハズムとは同じ町(アルメリアとコルドバ)に住んでいた時期は重なるものの、彼から直接教えを受けたかどうかは疑わしい[2]。むしろ同じ町に住んでいなかった時期に頻繁に文通をしていた可能性がある[2]

イブン・ワッカースィーらとはサーイドが18歳のときにトレドへ遊学した際に教えを受けたようである[2]。サーイドはここで、伝承学、論理学、文学、哲学、医学、数学、天文学を彼らのもとで学び、修めた[2]。とくに専門にしたのは法学[注釈 1]、歴史学、天文学である[2]。ヒジュラ暦438年(西暦1046年ごろ)以降は、トレドに定住したと言ってよさそうである[2]

後ウマイヤ朝体制が11世紀前半に瓦解し、以後のイベリア半島は「ターイファ」と呼ばれる群小王国が割拠する時代になる[3]。これらの中で比較的有力だったのがアッバード家の支配するセビリャズンヌーン家が支配するトレドである[2]。トレド王国は後ウマイヤ朝のスライマーン・イブン・ハカムアブドゥッラフマーン・イブン・ズンヌーンに認めた所領に由来し、コルドバの荒廃にともなう文化的中心の多極化の流れの中で、領主のいるトレドが科学や文学など学術の中心として発展することとなった[1][2]。ズンヌーン朝の歴代君主(アミール)は学術を保護したので、サーイド・アンダルスィーのような文人にとって刺激的な環境であった[1][2]

サーイドの博識は、トレドの君主アブー・フサイン・ヤフヤー・イブン・イスマーイール・イブン・アーミル・イブン・ムタッリフ・イブン・ムーサー英語版の興味を惹いたに相違なく、学術の師イブン・ワッカースィーがサーイドを君主に紹介した可能性もある[2]。1068年にヤフヤーはサーイドをトレドのマーリク法学派の裁判官(カーディー)に任命した[2]。なお、サーイドの父アフマドもトレドのカーディー職を最後の公的な職として1057年に亡くなっている[1]

ヤフヤーは君主号としては「マァムーン」を名乗り、数学、天文学、論理学、医学といった、当時の「哲学的」科学を庇護したパトロンである[1]。サーイドは裁判官をしながら天文観測と天文学の研究にいそしんだ[2]。同僚の天文学者にザルカーリーがいる[2]。トレドの王宮の天文学者にはユダヤ人の学者も多くいた[2]

サーイド・アンダルスィーは、トレドのカーディーとして在職中のヒジュラ暦462年シャウワール月4日(ユリウス暦1070年7月6日前後)に亡くなった[2]。太陰暦で42歳だった[2]。葬儀はトレド王国宮廷の高位者が執り行った[2]

著作

註釈

典拠

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