サービト・ダーモッラー
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| サービト・ダーモッラー・アブドゥルバキ | |
|---|---|
20代~30代のサービト・ダーモッラー・アブドゥルバキ | |
| 東トルキスタン共和国の首相 | |
| 任期 1933年11月12日 – 1934年2月6日 | |
| 前任者 | 設立 |
| 後任者 | 廃止 |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1883年 清、アルトゥシュ市 |
| 死没 | 1934年 中華民国、ウルムチ |
| 政党 | |
| 宗教 | イスラーム |
サービト・ダーモッラー(中国語: 沙比提大毛拉、Sabit (Sawut) Damulla Abdulbaqi、1883年 - 1934年)は、金樹仁の新疆省政府、後にウイグル人指導者ホージャ・ニヤーズに対するホータンの反乱を率いたウイグル独立運動の指導者である。
1933年11月12日から1934年5月に民国に倒されるまで続いた短命政権東トルキスタン・テュルク・イスラーム共和国の唯一の首相として広く知られる。
サービト(サーウト)・ダーモッラー・アブドゥルバキは1883年に新疆カシュガル付近のアルトゥシュに生まれ、そこで宗教教育を受けた。1920年代、ウルムチの新疆俄文法政専門学校を卒業した。楊増新が1924年に創設したこの学校は、後の新疆大学であり、もともと中国語とウイグル語とロシア語で講義していた。卒業後は中東のエジプトやトルコやサウジアラビアを訪れた。またソ連に行きそこで学業を継続した。この遊学でトルコ語や英語などの言語を学んだ。1932年、インドを通って新疆に戻り、そこでエミール・ムハンマド・アミーン・ブグラのホータン地方での反乱の準備に加わった。サービトはイスラーム世界が新疆の汎テュルク運動の支援に興味が無いのを見て取ると、列強へ向かった。
建国
1933年2月、新疆の墨玉やホータン一帯で新疆省主席金樹仁に対する反乱が発生した。ムハンマド・アミーン・ブグラは“ホータン臨時政府”(後の東トルキスタン共和国)を設立させ、自らをパシャとした。1933年11月12日から1934年2月6日の間、サービト・ダーモッラーはカシュガルの短命政権東トルキスタン・テュルク・イスラーム共和国(Turkish Islamic Republic of East Turkestan(TIRET))の首相に選ばれた。サービト・ダーモッラー・アブドゥルバキは共同政府の「ウイグル共和国」の名を望んだが、ムハンマド・アミーン・ブグラは新疆に広い反中国人かつ反ドンガン人前線を作る為に、すべてのテュルク系民族は「ウイグル」ではなく「テュルク」と呼ばれるべきだとしてそれに反対した。サービト・ダーモッラーは、エミール・ムハンマド・アミーン・ブグラとともに宣言したように、1933年3月16日のホータンの独立政府の創設に味方していた。 8月、サービトはカシュガルへ行き、アミーンとともに疏附(カシュガル回城)を攻略し、ホータンやカシュガルの体部分を支配した。その後サービト・ダーモッラーは英国駐カシュガル領事館につねに出入りして、イギリスに対しイスラーム国家の建国の支援を求めるようになった。そしてこの政府は、「東トルキスタン独立連合」(Eastern Turkestan Independence Associatio)を通してカシュガルからアクスへ支配を拡大した。11月12日夜、アミーンやサービトらは会議を開いて、東トルキスタン・イスラーム共和国の建国を宣言し、ハミ出身で1931年のハミ暴動の指導者であるホージャ・ニヤーズを総統に推挙し、サービトは首相となった。この会議を汎テュルク主義者は“民族の夜”と呼ぶ。
