中国国民党
中華民国の政党
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中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字: 中國國民黨、拼音: [12]、英: Chinese Nationalist Party、Kuomintang[13]、略称: KMT[13])は、中華民国(台湾)の政党。略称は国民党[23](こくみんとう)。イメージカラーは青(中国語では、日本語における「青」を「藍」と呼ぶ)で、ニュース報道等では、民主進歩党(以下、民進党)の「緑」に対して「藍」と呼ばれることがある。民進党と共に二大政党制を形成している。2024年1月現在は野党かつ立法院第1党である[24]。
| 中国国民党 中國國民黨 Chinese Nationalist Party / Kuomintang | |
|---|---|
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| 主席[1] | 鄭麗文 |
| 秘書長 | 黄健庭 |
| 成立年月日 | 1919年10月10日[2] |
| 前身政党 |
興中会 中国革命同盟会[3] 国民党 (1912年) 中華革命党[2][3] |
| 本部所在地 |
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| 立法院 |
52 / 113 |
| 地方議会席次 |
394 / 912 |
| 全国人民代表大会 |
0 / 2,980 |
| 党員・党友数 |
34万5,971人 (2020年[4]) |
| 政治的思想 |
古典派経済学[5] 反LGBT[6] 反同性結婚[7] 原子力発電[8] 保守主義[9] (自由保守主義[10]) (国民保守主義[11]) 三民主義[12][13][14] 三不政策[15] 防御的現実主義[16] 右派ポピュリズム 中華ナショナリズム[17] 九二共識・一つの中国 (親中華民国派) |
| 政治的立場 | 中道右派 [18] - 右派[19] |
| 機関紙 | 『中央日報』[20] |
| 党旗 |
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| 国際組織 |
国際民主同盟[21] 中道民主インターナショナル[22] |
| 公式サイト | 中國國民黨全球資訊網 |

概要
1919年10月10日、孫文が中華革命党を改組して結党した。
ポツダム宣言(第二次世界大戦終結)に基づいて1945年10月25日に中華民国が台湾を編入し、中国共産党との内戦を開いた中台両地域統治時代を経て、1949年12月7日中華民国政府が台北に事実上遷都した
1950年以後は、台湾省を地盤とした政党として存続し、台湾への土着化(台湾本土化)を経て、今日に至っている。
2000年に民進党の陳水扁総統が就任し、史上初めて野党となった。2001年には立法院(国会)第1党の座も奪われた。しかし、2008年に国民党の馬英九総統が就任し、立法院第1党も奪回、政権与党に復帰した。その後は対中情勢の変化もあり、2016年から民進党に政権の座を明け渡している。
台湾及び、福建省のごく一部(金門島、馬祖島)を基盤とした政党となって久しいが、党の精神的支柱として今なお孫文を党総理とし[注 1]、また蔣介石をも2014年から「永久総裁」としており、いまだ党名に「中国」を掲げて「中国の政党」としての建前は捨てていない。「大陸反攻」のスローガンを撤回した李登輝時代には党の台湾化、いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、李登輝が総統を退任して国民党を離党した2000年頃からは党内「本土派」が退潮し、副総統だった連戦が党主席に就任してからは「中華民族アイデンティティ」から、中国大陸との繋がりを強調する傾向に回帰している。
孫文と蔣介石が、日中戦争の前から大日本帝国(日本)と関わりが深かったこと(敵としても友人としても)や、冷戦時代は一党独裁を敷いて世界反共連盟(1990年に世界自由民主連盟と改称)を主導して反共主義による外交を展開し、日本の自由民主党(とりわけ清和会)と太い繋がりを持ったため、知日派を多数擁しており、中国国民党の公式ウェブサイトには、開設初期から中国語版、英語版と並んで日本語版がある[注 2]。
冷戦終結後は、敵対関係にあった中国共産党との党間交流を再び図るも、かつて孫文と蔣介石によって二度行われた国共合作の失敗から、拙速な中台統一には慎重な声も根強く、統一派である「統派」と距離を置き、現状維持を志向する「本土派」も存在する[26]。
歴史

黎明期
1894年11月、清国を打倒し共和制国家を樹立することを目的とした興中会が孫文を中心としてハワイで結成された。興中会はたびたび武装蜂起を試みたが失敗した。
1905年8月には清朝を打倒することを目指して結成されていた結社が大同団結することで合意し、興中会、華興会、光復会が合併して日本の東京で中国同盟会が結成された。中国同盟会は機関紙の『民報』を発行し、孫文は三民主義の思想を発表した。
1911年10月には武昌起義が起こり、翌1912年1月には南京で中華民国が成立、孫文を臨時大総統に選出した。2月には宣統帝(愛新覚羅溥儀)が退位し、辛亥革命が成り、清朝は滅亡した。同年8月には中国同盟会を中心として統一共和党、国民公党、国民共進会、共和実進会等が合併して「国民党」が結成された(この国民党は本記事の中国国民党とは別の組織であると認識されている)。
1912年12月から翌1913年2月にかけて実施された国会選挙では国民党が第1党となったが臨時大総統に就任していた袁世凱に警戒され、国民党の主要人物であった宋教仁は上海で暗殺された。反発した国民党員は袁世凱打倒のため武装蜂起を試みるが失敗に終わり、主要党員の多くは海外に逃亡、残った党員も弾圧されて国民党は破滅状態になり、11月には国民党に解散命令が出された。日本に亡命した孫文は1914年7月、東京で中華革命党(こちらが中国国民党の前身)を結成した。この中華革命党において孫文は党員に対して絶対服従を要求した。同年の第一次世界大戦の勃発に乗じて1915年に日本が二十一カ条の要求を突きつけた。すると袁世凱は帝政を樹立し、難局を乗り切ろうとした。が、かえって帝政反対運動である第三革命が起こった。結局実現できないまま袁世凱は1916年に亡くなってしまった。翌1917年には孫文が広東軍政府を樹立した。しかし、北京の段祺瑞軍閥政府に戦敗し、上海へ逃げた。その中、1919年にヴェルサイユ条約に反対する五四運動が始まり、中国民衆の帝国主義に対する民族運動が一気に高揚した。
中国大陸時代
中国国民党の成立
1919年10月10日、結成されたものの活動が停止していた中華革命党を改組する形で中国国民党が結成された。本部は上海に置かれ[27]、党総理には孫文が就任した。
第一次世界大戦後のパリ講和会議によってドイツから山東半島の権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく[28]。この反日愛国運動は、孫文にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した[29]。旧来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェヴィキをモデルとした[28]。ソ連からコミンテルン代表のミハイル・ボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍にあたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母兄弟」とする見方もある[29]。他にもソビエト連邦共産党のシステムを学び、ソ連と同様の党国体制を布いた。
1921年に中国共産党が樹立されると、国民党は当初は容共の立場をとり、1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月にはソ連との連帯を鮮明にした「孫文・ヨッフェ共同宣言」が発表される[30]。1923年6月の中国共産党第3回全国代表大会においてコミンテルン代表マーリン指導で、国共合作が方針となった[30]。1924年1月20日には、共産党との第一次国共合作が成立し、軍閥に対抗するための素地が形成された。陳独秀や毛沢東もこのときに国民党に入党した[31]。
孫文の死後、1925年に上海で発生した五・三〇事件を背景にして、汪兆銘を主席とする広州国民政府を樹立、1926年には、北伐を開始した。1927年に、蔣介石の上海クーデターにより国共合作は崩壊したものの、北伐は継続され、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒すことに成功した。
南北統一・国民政府成立後
北伐の完了を受けて、1928年、蔣介石を主席とする国民政府が中華民国を代表する政府となった。しかし、その内実は、北伐の過程で、各地の軍閥を取り込んだ、雑居政党となっており、それらを整理しようとする蔣介石の動きを1つの契機として、中原大戦(1930年5月1日~10月10日)を頂点とする、党内対立の激化が起こり、最大の危機を迎えることになる。
1928年5月、国民党は南京において排日教育方針を決議した[32]。国民党が決議した排日教育方針は以下である[32]。
- 国恥教材を十分中小学教科書中に編入すること
- 学校は機会ある毎に、国恥事実を宣伝し、我が国第一の仇敵が何国なるかを知らしめ、これを反覆すること
- 国恥図表を設備し、学生に対し機会ある毎にこれを示し、その注意を促すこと
- 第一の仇敵を打倒する方法に関し、学校において教師学生共同研究すること
ここで日本の活動は武力的政治的侵略であるとし、馬関条約、義和団の乱、対華21カ条要求の撤回、さらに沖縄、台湾、朝鮮、関東州の返還を主張、経済的侵略として日貨排斥、国貨使用を提唱し、日本が中国を侵略するのは人口が増加しているためであり、日本が行う中国での文化事業までも文化的侵略であるとしている[32] 。佐々木秀一『時局と教育的対策』(明治図書、1938年11月)は、国民党は「彼等は、自己に都合よき場合には歴史上の因果関係を肯定し、然らざる場合にはこれを否定する」とし、自分たちが多民族の領土を略奪したものを当然とする一方、アヘン戦争以降に喪失した領土については不当であると主張するのは自己矛盾であると指摘している[33]。佐々木秀一『時局と教育的対策』(明治図書、1938年11月)によると、国民党の排日教育の内容は以下である[34]。朝鮮、沖縄、台湾の領有権は言及しているが、日本帝国主義によって奪われたと主張する尖閣諸島の領有権について、何ら触れていないのが興味深い[34]。
<地理>
割譲地
日本の中国侵略は約五〇年前、我藩属琉球を奪ひ、沖縄県と改称したるに始まる。日清役後、我が台湾、膨湖列島を奪ひ、福建に近遍す。日露役後、また我が藩属高麗を併呑し、両国境に境を接す。<小学唱歌集>
国恥記念歌
高麗国、琉球国、興台湾
少なからざる地すべて彼に併呑せらる
(…)
奴隷となり僕婢となるの日、眼前に迫る
此国辱何れの時か消えん
1932年には、強大な軍事力とブルジョアジーの支持を背景に、蔣介石はなんとかその危機を乗り越えるが、他方で、その間の共産党の勢力回復や満洲事変以降勢力拡大する日本軍に脅かされることになる。
蔣介石は、抗日戦より反共主義を優先し、1930年から1934年にかけて、5次にわたる反共囲剿戦(掃共戦)を繰り広げるも、共産党は井崗山の革命根拠地を撤収・放棄して長征を行ったことから共産党を亡ぼすには至らなかった。この頃の国民党軍はドイツ国防軍からアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンを軍事顧問として招き精鋭化されていた。1936年には、なおも抗日戦における共産党との共闘に徹底的に反対していた蔣介石が張学良らによって軟禁され (西安事件)、これが、国共両党の接近をもたらした。1937年に日中戦争が開始され、同年9月22日、第二次国共合作が成立。同年末に南京が陥落すると、国民党政府は重慶に移転して日本軍の攻撃をしのぎ、執行機関を武漢に置いた。1938年3月29日、漢口に於いて臨時全国代表大会を開き、三民主義を再確認するとともに、憲章改正で総裁制が定められた[注 3]。1939年、国民党副総裁の汪兆銘は重慶から脱出し、南京に新たな国民党を設立した。 太平洋戦争期には遠征軍がビルマの戦いに参加し、10万名の戦死者を出した(抗日老兵)。
国共内戦
1945年8月18日に満洲国がソ連軍の侵攻で崩壊(三日前の15日には大日本帝国が降伏勧告を受け入れ無条件降伏と全軍の武装放棄を決定・発令している)、9月2日にはポツダム宣言受諾の調印があり、10月25日に台湾は国民党政府に明け渡され、日本軍は中国本土から撤退し、国民党政府は旅順・大連・香港・マカオを除く中国大陸と、台湾の両地域を領土とした(満洲は翌年1946年5月までソ連軍政下に置かれて東北問題という外交問題になった)。
1945年10月にアメリカの調停で結ばれた双十協定は失敗し、同年11月から国共内戦が再開されるが、国共内戦中にアメリカからの支援が打ち切られたことや法幣の濫発が災いして、ソ連が支援する共産党に対して劣勢に陥り、1949年には中華民国政府が内戦により台北へ遷都を余儀なくされた。このため、国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本降伏後に連合国として統治していた台湾島一帯だけとなった。
国共内戦により大多数の人物が台湾へ移ることを余儀なくされたが、蔣介石に従わなかった国民党の一部は中国大陸にとどまり、中国国民党革命委員会として共産党の衛星政党となった。また、四川・雲南方面の部隊はタイ、ビルマ、ラオスなど東南アジアに逃れ、東南アジアの政治的混乱に乗じる形で抵抗拠点を築いた。
特に内戦の激しいビルマでは、同国政府の支配が事実上なされていないシャン州に逃れた。有力なワ族など少数民族と連携し、同州を大陸反攻の拠点として占拠した(泰緬孤軍)。麻薬生産等にも関わって勢力を拡張した時期もあり、アメリカはCIAを用いて公然と国民党軍(KMT)を支援した。支援は大規模なものであり、同州内に飛行場や軍事基地が構築された他、輸送機による物資・人員の補給も活発に行なわれていた。
1950年代当時のビルマでは少数民族の武装蜂起やビルマ共産党の政権からの離脱などが相次いでいた。KMTのシャン州での占領はビルマの動揺を増幅するものであった。当時のウー・ヌ首相は、国際連合において、KMTのシャン州占領を不法行為とみなし、KMT将兵の国外退去を要求している。また、後に政権を獲得する事になるネ・ウィン国防相は、少数民族の反乱を鎮圧にこぎつけたのを機に、シャン州にて抵抗を続けるKMT残党の掃討作戦も開始。時には中国人民解放軍と連携して共同作戦を取りながら、KMT勢力の追放に取り掛かった。
こうしたビルマ政府の反発によって、シャン州にいた元KMT将兵の大半は台湾やタイなどに出国するか、麻薬王となったクン・サのように地元に土着化していった。
台湾移転
台湾に本拠地を移して以降は、長期的な視野では中国大陸との統一を主張しているが、短期的な視野では現状維持を志向している。
台湾移転後は、臨時立法だったはずの動員戡乱時期臨時条款により、38年に渡って(世界最長の)戒厳体制が敷かれ一党独裁体制で政権を担ってきた。1979年の美麗島事件をきっかけに、1987年に蔣経国総統が政党結成を解禁したことにより(党禁)、一党独裁体制は終結した。
野党への転落と政権復帰
1996年には中華民国の国民による総統選挙に移行し、2000年の総統選挙で民進党の陳水扁に敗れて歴史的に初めて野党になり、2001年には立法院(議会)でも第2党になった。
2005年、党主席の連戦らが北京を訪問。中国共産党総書記・中華人民共和国主席の胡錦濤と会談した。両党トップの会談は1945年の蔣介石と毛沢東による重慶会談以来60年ぶりで、台湾独立反対という姿勢で一致した。翌2006年には共産党との交流協議の枠組みである両岸経済貿易文化フォーラム(国共フォーラム)を設置した。
2008年に立法院第1党に返り咲くとともに、国民党の馬英九が総統選挙に勝利し、8年ぶりに政権与党の座に復帰した。同年には呉伯雄主席が与党党首としては初めて訪中して胡錦濤と会見し、北京オリンピックの開会式と上海万博開幕式にも出席した[35][36]。2009年に馬英九が国民党主席に当選した際は胡錦濤から祝電がおくられている[37][信頼性要検証]。
2012年の立法院選挙では第1党を守り、総統選挙でも再選を果たした。同年の中国共産党第十八回全国代表大会では国民党中央委員会が初めて祝電を打ち[38]、習近平が中国共産党総書記に選出された際は馬英九が異例の祝電をおくった[39]。習近平総書記も国民党で新たな主席が当選するたびに祝電をおくっている[40][41][42]。
2015年11月7日[43]、シンガポールのシャングリラホテルで、馬英九は習近平と1949年の中台分断後初となる中台首脳会談を行った。
民進党の復権、再び下野
2016年に行われた総統選挙にて、総統候補の朱立倫主席は、民進党の蔡英文主席に敗れて、国民党は再び野党となった。
2018年に行われた統一地方選挙にて躍進し、民進党の牙城だった高雄でも議席を獲得した[44]。
2020年に行われた総統選挙では国民党候補の韓国瑜が現職の蔡英文に敗北し、同時に行われた立法委員選挙でも3議席を増しただけで民進党に過半数を維持されることとなった[45]。香港で民主化デモが起きてから国民党の総統選候補は支持率が逆転しており[46]、香港情勢で対中姿勢が警戒された影響とされる。
2024年に行われた総統選挙では国民党候補で新北市長の侯友宜が、民進党候補の頼清徳に敗れ、総統選3連敗を喫した。一方で同時に行われた立法委員選挙では議席を伸ばし、過半数には届かないものの民進党を抜き議会第1党となった[47]。
2025年6月20日、中央選挙委員会は、国民党立法委員24人に対するリコール案について要件を満たしたと認定。同年7月20日にリコールの是非を決める投票を実施すると発表した[48]。投開票の結果、24人全てのリコールが不成立となった[49]。
政策・主張
内務
減税
中国国民党は減税を主張しており、減税が経済成長を刺激できると考えている。そのため、税制が富裕層に偏っていると批判されたにもかかわらず、国民党の馬英九政権は相続税を10%へ大幅に引き下げる決定を下した。当時の理由としては、この措置によって資金を台湾に呼び戻し、経済全体の規模を拡大させ、税率を下げることで逆に課税対象を広げ、財政問題の解決に役立つとされた。[50]
国民党は「遺産及び贈与税法」を改正する際、2009年から相続税を最高50%から10%の単一税率に引き下げ、投資を呼び戻した。[51]国民に対する減税として、「所得税法」を改正し、総合所得税の税率「21%、13%、6%」の3段階をそれぞれ「20%、12%、5%」に引き下げ、2010年から施行することで、380万世帯の総合所得税納税者が広く恩恵を受けた。[52] 同年、「産業イノベーション条例」の制定に合わせて、「所得税法」を改正し、法人税を25%から17%に引き下げた。[53]
2011年には特定消費税を導入し、不動産投機取引を取り締まった。6月1日から施行され、財政部の資料によれば、住宅価格と取引量の抑制に確かな効果があった。2013年1月31日時点で、徴収された税収は新台湾ドル672億2,282万余元に上り、すべて社会福祉支出に充てられた。[54]
原子力発電

中国国民党は、原子力こそが最も環境に優しいエネルギーであり、[55]また、台湾が脱原発によって病院や住宅での停電な[56]ど生活問題に直面していることを解決する鍵だと考えている。[57]
国民党の発言者、鄧凱勛は、世界の動向は原子力発電の延長運転にあると述べた。アメリカでは96基の原子炉が使用許可を延長され、日本では14基の原子力発電所が再稼働、フランス、カナダ、フィンランド、イギリスも原子力発電所の延長を発表している。[58]
会議に出席した国民党の立法委員、葛如鈞は、安定した電力網は台湾の経済発展の命脈であると述べた。葛如鈞は、NVIDIAのCEOジェンスン・フアンが台湾は必ず原子力に投資すべきだと言ったこと、米国在台協会台北事務所長レイモンド・グリーンが「すべての先進プロセス技術の突破にはこれまでにないエネルギー消費が必要だ」と述べたことを挙げた。政府(蔡英文政権)も、AI産業の需要を満たすため、今後5年間で全国の電力需要を13%増加させる必要があると述べている。[58]
各国の計算によれば、AIを全力で発展させる場合、年間の電力需要増加は全国の電力の3%から30%に達するが、政府はそれにもかかわらず毎年原子力発電所の稼働を停止している。[58]
反LGBT
中国国民党はLGBTに反対の立場を示しており、同性婚の合法化を支持していない。[59][60][61]同性婚の合法化を支持しているのはごく少数の党員だけである。
中華民国で同性婚が合法化された後、国民党所属の立法委員・賴士葆は、国民党が再び与党になれば、すぐに同性婚を合法化した法律を廃止すると述べた。[62]
一つの中国:中華民国
中華民国優先
中国国民党主席の江啓臣は、中国共産党との交流に関する戦略について説明したことがある:[63]
国民党は共産党との経済交流において「中華民国」を最優先にすべきだと考え、両政府が海峡両岸サービス貿易協定を締結して経済を押し上げるべきだと主張している。国民党は海峡両岸サービス貿易協定は中国大陸からの観光客の来台を認めるだけで、大陸人の台湾での就労は認めないとし、市場が台湾人の収入を大幅に押し上げ、台湾人の充分な雇用を実現し、国内企業を活性化させると見ていたが、ひまわり学生運動のために計画は頓挫した。国民党政権の中華民国は中華人民共和国とデタントを保っていた。民進党とは異なり、国民党政権下では両国間で過度に頻繁な軍事的示威活動はなかった。
| 2013年6月21日、台湾の海基会と大陸の海協会が「海峡両岸サービス貿易協定」に署名し、立法院に送って備査に付した。当時は馬英九を含め、民進党でさえも、この協定がその後前例のない、両岸関係と台湾内部の政治版図を揺さぶる巨大な政治的津波を引き起こすとは思っていなかった。4年以上前に両岸がECFAの締結を準備していた時と比べると、その時点で国内の政治空気はすでに変わっていた。
第一、民進党と一部の「本土」価値を強調するメディアが、ずっと馬英九の両岸政策を疑い続け、さらに2008年11月に大陸海協会会長の陳雲林が台湾に来た時に起きた国旗撤去事件が火に油を注いで、馬英九の両岸政策には民進党と泛緑連盟から「親中売台」というレッテルが押された。今振り返って客観的に見れば、「親中売台」はもちろんイデオロギー闘争の一種であり、大陸の文化大革命のように、恣意的に罪名を押し付けるのと同じだ。不幸なことに、馬英九の外省人という背景と、就任以来どんどん加速した両岸交流が、「嫌中」論調が広がる温床となった[注 4] 第二に、今回の「サービス協定」の影響はもっと現実的で、観光、小売、印刷、美容など24項目のサービス産業に関わり、数百万人の利害を揺さぶる。敏感度は極めて高く、小さな火種があれば一気に燃え広がる状況だった。当時の国策顧問で出版事業も営んでいた鄒義は署名前日に「残り24時間もない」という文章を出し、最初の大きな一撃を放った。彼自身は印刷業者の立場じゃなかったけど、締めくくりに有利な立場とも言え、発言は社会不安を一気にあおった。馬英九は関連部会に説明を強化させ、説明資料や影響レポートを国会に次々送らせても、野党の立法委員や反対する群衆を説得することはできなかった。政府が再三「大陸労働者を台湾に入れる開放はしてない、大陸観光客が来れば雇用は増える」と説明しても、恐怖感はどんどん広がり、野党は「数百万人が失業する」なんて荒唐無稽な言い方をして、それがまるで火が野原に燃え広がるように収拾がつかなくなった。 |
民主進歩党への政策:反独立運動

中国国民党は、民進党は中共と政治的に協議した経験がほとんどなく、中共との政治的相互信頼もないと見ている。だから中華民国と中華人民共和国の関係をデタントできず、その結果として人民解放軍が台湾海峡で軍事的示威活動を行う状況がますます頻繁になり、台湾海峡で武力紛争が起きる確率が極めて高くなっている。
これに対して、江啓臣は国民党代表として保守主義国際組織「国際民主同盟」で次のように発言した:[65]
過去から現在に至る国民党と中共の関係を振り返ると、双方に対抗や競争があり、同時に協力もあった。国民党は中共と最も多く交わってきた政党だ。長年、両岸は国際舞台でゼロサムの対立を続け、数回の軍事衝突も起きたが、1990年代以降、国共両党は主に「競争しつつ協力する」という相互作用のパターンを徐々に発展させた。2008〜2016年の国民党政権期には、両岸の交流が制度化の段階に入り、「一中各表の九二共識」を基盤に11回の会談を開き、23件の協定に調印した。それによって台湾の国際的な空間も拡大し、台湾は実務的かつ意義ある形でいくつかの重要な国際組織の活動に参加できるようになった。
とはいえ、それが国民党の中共への屈服を意味するわけではない。実際、当時の国民党政府は中華民国の防衛、外交、両岸関係の制度化などの分野で中共と競い続けていた。
両岸問題の本質は制度と生活様式の争いだ。台湾は1980年代半ばから徐々に民主化が進み、これまでに3回の政権交代を経験した。台湾の民主主義は完璧ではないが、華人世界の模範であり、中国大陸の将来の発展と政治改革にとって「台湾経験」はきわめて貴重だ。制度的な模範効果と先導力を持つことが、国民党の信念であり堅持している点でもある。
国民党が数十年にわたる中共との交手で示してきたのは、共産主義とその制度に反対する立場、衝突を恐れないが軽々しく戦端を開かない姿勢、両岸の繁栄を推進し平和を追求する一方で平和のために屈して降伏しないという方針だ。台湾人民は中華民国憲法の下で団結し、中共の政治宣伝や統戦手段に影響されないよう警戒しなければならない。こうした貴重な経験は、両岸が再び人民に安定した暮らしをもたらす可能性を開くものだった。
一方、二度目の政権をとった民進党は、中共政府と政治的協議を行ってきた経験が乏しく、中共政府との政治的相互信頼もない。だから両岸の衝突を和らげる術に長けていない。この一年余り、解放軍が台湾周辺の海空域で頻繁に演習を行っているため、観測者や米国の高級将官たちは台湾海峡を戦争が勃発する可能性の高い地域の一つと見なしている。
「競争と協力の共存」こそが現在の両岸で唯一実行可能な相互作用モデルだ。だから台湾の与党は、両岸関係の改善や台湾の科学技術・経済力の強化に努めると同時に、中共政府が軍事的に楽観できない状況をつくる必要がある。そうしてこそ中共が軽々しく戦端を開くことを抑止できる可能性が出てくる。
国民党の歴史は1894年にさかのぼる。1912年には中華民族史上初めて、そして今日まで唯一の民主共和国である中華民国を樹立した。1949年に中華民国政府が台湾へ移って以降、国民党は台湾の安全の守護者であり、経済奇跡の創出者であり、両岸平和の安定勢力でもあった。国民党は参加するすべての政党指導者や専門家・学者とともに、世界の民主・安全・繁栄のために力を尽くしたいと考えている。
国民党は台湾独立運動に反対し、民進党を「緑の共産党」(緑共)としてたびたび非難している。民進党は民主と自由を掲げながら、実際の政権運営では思想統制と政治的粛清の全体主義的深淵へと進んでいると批判されている。柯建銘が先頭に立って大罷免を仕掛け、沈伯洋が異論者を「紅」とレッテル貼りし、賴清德が「賴17条」国安改正を推進するなど、緑のマッカーシズムが台湾の自由と理性を蝕みつつある。[66]
民進党が主導した大罷免の中で、国民党はただ意見が異なるというだけで「共軍を招いた紅色スパイ」と決めつけられたと批判している。[67]
中国共産党への政策:防御的現実主義
第二次国共内戦の際、中国大陸で中国人民解放軍と交戦していた国民党は、アメリカの裏切り(援助の中断と『中国白書』の発表)、さらに現在の中華人民共和国の膨大な軍事支出や中華民国とアメリカの関係の不確実性を背景に、「防御的現実主義」を基調とした対中共政策を確立した。その目的は、一方でデタントによって国民党と共産党の関係を維持し、他方でデタントから得られる経済的利益によって中華民国国軍の戦力を強化し、アメリカとの軍事協力で台湾を守り、中華人民共和国による武力解放を防ぐことにある[16][70][71]
国民党は、中国共産党が提示した「一国二制度」に対して受け入れを拒否し、統一は必ず民主的な方法で行われなければならないと主張した。[72]
民進党が「九二共識」に違反したことで、中華人民共和国が台湾に対して頻繁に軍事演習を実施するようになり、中華民国と中華人民共和国の関係が悪化し続けていることについて、国民党は「九二共識」を承認し、民進党がこれに違反したことを非難した。[72]国民党は、その結果、台湾が中華人民共和国による武力統一の危険に直面していると指摘している。
2008年5月20日に国民党の馬英九が就任して以降、2000年代後半にかけて中華人民共和国の軍事的示威活動が激化したことで、国民党政権は既存のPAC-2ミサイル部隊の近代化を継続し、2008年にアメリカから65億ドル規模の兵器購入の一環として、命中破壊型迎撃能力を持つPAC-3の新規導入を決定した。3基のPAC-2部隊はコンフィギュレーション3型PAC-2 GEMへ改修され、2009年にはPAC-3をさらに4基導入する契約を締結した。PAC-3ミサイルは2008年と2010年に購入が進められ、2010年から2013年の間に約386発が納入された。4基のPAC-3部隊は2014年から2015年にかけて配備された[16]:11

中華民国海軍がオランダから購入した2隻の剣龍級潜水艦は1988年に就役したが、潜水艦の総数はわずか4隻にすぎず、そのうち2隻は第二次大戦期に就役した米国の茄比級(原語表記)の旧式潜水艦だった。だから中華民国海軍は長年にわたり、老朽化した米国潜水艦2隻を更新し、潜水艦戦力を拡充するために最低でも6〜8隻の潜水艦を調達しようとしてきた。しかし潜水艦は極めてセンシティブな艦種であり、欧米の潜水艦建造国は売却要請を拒んできた。長年の働きかけの末、米国は2001年にようやく8隻の潜水艦売却に同意したが、潜水艦調達を含む三件の軍備購入案件は立法院で泛藍陣営の政治闘争の具にされ、民進党の陳水扁政権下では8隻分の予算が全額削除された。2008年に国民党の馬英九政権が発足して再び米国に潜水艦購入を打診したが、2009年にオバマが米大統領に就任して以降、潜水艦売却は棚上げされたままだった。2010年代に入ると、たとえ最も新しい2隻のオランダ製潜水艦も運用開始から25年を経過していた。[73]当時の中華民国海軍司令・陳永康上将は2014年1月に公然と「台湾は長期間待てない」と強く表明し[74]、海軍は「潜艦国造」計画を始動させ、職員を他国へ派遣して潜水艦の設計・建造情報を収集した。米国の売却拒否と海軍の推進を受けて、国民党政権は任期末に自主建造へ方針を転換した。現役4隻の代替が見通せないため、翻修とアップグレードで戦力を維持する必要があり、同時期に海軍は旧米国茄比級を改修した海獅級の延命改修を決定し、剣龍級の性能向上事業も計画した[75]
第二次大戦期の海獅型潜水艦は機械的に既に老朽化していたため、海軍は2014年初めに、2015年に同型艦のリバースエンジニアリングによる翻修計画を実施することを計画した。耐圧殻や作戦システム、主機部品を交換して稼働年限を延ばすというもので、翻修の経験と成果は将来の新造潜水艦建造の基礎になり得るとされた[76]
2015年7月1日、海軍の自主潜艦開発を担当する「海星小組」が再び活動を再開し、潜艦国造計画の再始動を示した[77]
中華民国国防部は「潜艦国造第一段階契約設計」を公告し、2015年末までに公開入札で業者を選定する計画を示した。最短で2024年に初号艦を建造完了する見込みで、初艦の設計には約3年、原型艦の建造には約5年を要すると見積もられている。[78]したがって構想設計から初号艦の完成まで約10年を要し、原型艦は最短で2024年に進水、[79]その後1年の戦術試験を経て最速で2025年に就役する可能性がある[80]
2015年8月31日、国防部は「2016年度国防予算書」を提出し、その中で海軍司令部が「潜艦国造第一段階契約設計」計画を始動することを明記した。投入見込み額は約新台湾ドル30億元で、5年以内に設計を完了する予定とされた[81]
組織
歴代の党首
党役員
党章上、党員が総統在任中は党主席を兼任すると定めていたが、2019年7月に開かれた第20期第3回党大会でこの規定は削除された[82]。なお、野党時には党員の直接選挙により選出される[注 5]。
なお、総統在職中だった馬英九は2014年11月に実施された統一地方選挙で大敗し、主席を引責辞任した。これに伴い、総統が党主席を兼任する条文は空文化した。2015年1月、党主席選挙が実施され、新北市長朱立倫が当選した。しかし2016年1月に行われた総選挙大敗の責任を取り党主席を辞任し、前嘉義市長の黄敏恵が主席代理に就任した[83]。その後3月26日に主席選挙が行われ、統一志向の洪秀柱が主席代行を務めていた黄敏恵らを退け初当選した。洪は、黄埔軍校同学会などで中国大陸と繋がりの強い退役軍人や年金改革に反発する公務員といった軍公教を支持基盤にしている[84]。また総統選の際にいったんは党の公認候補に選ばれたのに支持低迷を理由に途中で交代させられ、党内に同情論が強かったことも追い風になった模様[85]。
秘書長(党幹事長に相当)は、黄健庭。なお連戦と呉伯雄の両元主席は「名誉主席」の称号を与えられている。
黄復興党部
1949~87年の戒厳令時代、国民党の一党支配を支えた軍の退役軍人組織。退役軍人は国民党員として組織化され、党内の「黄復興党部」に属した。軍並みの組織力と団結力を誇り、選挙では「鉄票隊」の異名をとる。中国にルーツを持つ者が多く、親中政策をとる国民党を支えている。中心人物で軍OBの季麟連は2025年現在、国民党の副主席に就いている[86]。
選挙記録
総統選挙
| 中国国民党候補の県市別得票率 |
| 中国国民党候補の郷鎮市区得票率 |
| 年度 | 選挙 | 総統候補 | 副総統候補 | 得票数 | 得票率 | 当選 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1996 | 第9期総統・副総統選挙 | 李登輝 | 連戦 | 5,813,699 | 54.00% | |||
| 2000 | 第10期総統・副総統選挙 | 連戦 | 蕭万長 | 2,925,513 | 23.10% | |||
| 2004 | 第11期総統・副総統選挙 | 宋楚瑜( |
6,442,452 | 49.89% | ||||
| 2008 | 第12期総統・副総統選挙 | 馬英九 | 蕭万長 | 7,658,724 | 58.45% | |||
| 2012 | 第13期総統・副総統選挙 | 呉敦義 | 6,891,139 | 51.60% | ||||
| 2016 | 第14期総統・副総統選挙 | 朱立倫 | 王如玄(無所属) | 3,813,365 | 31.04% | |||
| 2020 | 第15期総統・副総統選挙 | 韓国瑜 | 張善政(無所属) | 5,522,119 | 38.61% | |||
| 2024 | 第16期総統・副総統選挙 | 侯友宜 | 趙少康 | 4,671,021 | 33.49% | |||
立法委員選挙
| 年度 | 選挙 | 区域得票率
(選挙区) |
政党得票率
(比例代表) |
得票率 | 当選者数 | 定数 | 議席占有率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1992 | 第2回立法委員選挙 | 53.02% | 95 | 161 | 59.01% | ||
| 1995 | 第3回立法委員選挙 | 45.63% | 85 | 164 | 51.83% | ||
| 1998 | 第4回立法委員選挙 | 45.46% | 123 | 225 | 54.67% | ||
| 2001 | 第5回立法委員選挙 | 27.85% | 68 | 30.22% | |||
| 2004 | 第6回立法委員選挙 | 32.22% | 79 | 35.11% | |||
| 2008 | 第7回立法委員選挙 | 53.48% | 51.23% | 81 | 113 | 71.68% | |
| 2012 | 第8回立法委員選挙 | 48.12% | 44.55% | 64 | 56.64% | ||
| 2016 | 第9回立法委員選挙 | 38.71% | 26.91% | 35 | 30.97% | ||
| 2020 | 第10回立法委員選挙 | 44.73% | 33.36% | 38 | 33.63% | ||
| 2024 | 第11回立法委員選挙 | 40.44% | 34.58% | 52 | 46.02% | ||