シオン・ロングリー・ウェンバン
From Wikipedia, the free encyclopedia
オハイオ州のシンシナティで生まれた。父親はイギリス、ケント州からの移民で、馬車製造の仕事をしていて、父親が購入したクリーブランド近郊の農場で育った。15歳から母親の兄弟の画家のトーマス・スティーブンソンが働いていたクリーブランドの写真スタジオでレタッチの仕事を始め[1]、肖像写真をもとに木炭画を描くようになり人気を得た。
ニューヨークのナショナル・アカデミー・オブ・デザインでレミュエル・ウィルマース(Lemuel Wilmarth)から定期的に絵画を学んだとされ、ウィルマースからミュンヘンで修行を続けることも勧められた。1869年にシカゴに移り、1871年まで写真家のもとで働いた。クリーブランドに戻り、画家オットー・ヘンリー・バッチャー(1856-1909)と友人になり、版画を学んだ。1878年から、バッハーと共に旅をし、ロンドンとパリを訪れた後、ミュンヘンに移り[1] 、共にミュンヘン美術院に入学した。美術院ではガブリエル・フォン・ハックルに学んだ[2]。
1870年ころからミュンヘンで活動していたアメリカ人画家のジョセフ・フランク・カリアー(Joseph Frank Currier: 1841-1909)やフランク・ドゥフェネク(1848-1919)から影響を受けた[3]。
1880年までにミュンヘン郊外のオーバーシュライスハイム(Oberschleißheim)にアトリエを開き、1880年にドイツ女性と結婚した[4] 。生活は苦しく各地を転々とした。1883年以降は版画に専念し、1891年にミュンヘンオリジナル版画協会(Vereins für Originalradierung)の創立会員になり会計担当を務めた。1892年にミュンヘン分離派の会員となった[5]。
しばしば体調を崩すようになり1897年に49歳でミュンヘンで亡くなった。