シャラフッディーン・マフムード・シャー
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シャラフッディーン・マフムード・シャー(ペルシア語: شرفالدین محمود شاه、Sharaf al-Dīn Maḥmūd Shāh、生没年:? - 1335年)は、イルハン朝の官僚で、インジュー朝の始祖。シャラフッディーン・マフムード・シャー・インジュー(ペルシア語: شرفالدین محمود شاه اینجو、Sharaf al-Dīn Maḥmūd Shāh Injū)とも表記され、インジュウ(inǰü)とはモンゴル語で「公ならざるもの=ハンの直轄領」を意味し[1]、シャラフッディーン・マフムード・シャーがハンの直轄領であるファールス州の長官をしていたことに由来する。
生まれ
シーラーズ市のハーキム(ḥākim)[注釈 1]であったタフトゥーク(Ṭakhṭākh)の子として生まれる[3]。
ファールスの長官となる
1303年/1304年、イルハン朝第7代君主ガザン・ハンのときにシャラフッディーン・マフムード・シャーはファールスの長官に任命され、インジュー(ハン直轄地)の管理を受け持つ[4]。
1324年/1325年、サワーミリー家のアブドウゥル・アズィーズが処刑されると、シャラフッディーン・マフムード・シャーはダライ(国有地)の管理も掌握し、一族でファールスを受け持った[3]。
シャラフッディーン・マフムード・シャーはアミール・チョバンの庇護により、長い間ファールスの長官の地位を占め、莫大な財産を持ち、ファールスにおける土地の収入は1千トゥメンにもおよんだ[5]。
チョバンの死後はワズィールのギヤースッディーン・ムハンマドと姻戚関係を結んで国事を共同した[3]。
ムザッファル・イーナーク襲撃事件
しかし1333年/1334年、スルターン・アブー・サイードがアミール・ムザッファル・イーナークを新たなファールスの長官に任命すると、シャラフッディーン・マフムード・シャーは激しい憎悪を抱き、マフムード・エセン・クトルグ、ニクルーズの子スルターン・シャー、ムハンマド・ベク、ムハンマド・ピルテン、ムハンマド・クシュジなどイーナークの恩寵を嫉んでいたアミールたちと同盟して、ムザッファル・イーナークの邸宅を襲撃した[6]。ムザッファル・イーナークは屋上に逃れ、屋根伝いに飛び越えて宮殿に逃げ込んだ[6]。シャラフッディーンたちは宮殿へも追跡してきてスルターンの玄関まで侵入し、スルターンがいるにも関わらず障壁に矢を浴びせ、ムザッファル・イーナークの身柄を要求した[6]。アブー・サイードは身の危険を感じ、ムザッファル・イーナークを引き渡そうとしたとき、チョバンの子ソルカン・シラとホージャ・ルールーが軍隊を率いて駆けつけ、謀反人たちを撃退した[6]。彼らは逮捕され、死刑を宣告されたがワズィールのギヤースッディーン・ムハンマドのとりなしによって禁固刑となった[6]。彼らのうち、シャラフッディーン・マフムード・シャーを除いて各地の城堡に禁固された[6]。
死去
1335年、アブー・サイードが崩御し、アルパ・ケウンが第10代イルハンに即位すると、家柄・身分・財産などで顕著な人物、とりわけシャラフッディーン・マフムード・シャーを殺した[7]。