アルパ・ケウン
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生まれ
アルパ・ケウンはアリクブケの次男メリク・テムル(メリク・ティムール)の子ミンガン(シンカン)の子ソセ(スサ)の子として生まれる[1]。
即位
1335年11月、アブー・サイード・ハンが崩御すると、彼にはまったく子がいなかったため、ワズィールのギヤースッディーン・ムハンマドはハトンやアミールたちの支持をあつめて、アリクブケの後裔アルパ・ケウンを推挙し、第10代イルハンとして即位させることに成功した[1]。アブー・サイードのハトンの中で最高位であったディルシャード・ハトンは妊娠しており、自分の生命の危機を感じたため、母方の叔父であるイラーク・アラビーの長官アリー・パーディシャーのもとへ避難した[1]。アルパ・ケウンはバグダード・ハトンが平素から自分を軽蔑していることを知り、彼女がジョチ・ウルスのウズベク・ハンと内通し、アブー・サイードに毒を盛ったとの容疑をかけて処刑した[1]。
ウズベク・ハンとの戦い
アルパ・ケウンは厳冬の最中にウズベク・ハンに対して進撃した[2]。アルパ・ケウンは敵陣と相対して布陣し、一部隊を分けて背後から襲撃をかけた[2]。これによってウズベク・ハンは退却し、アルパ・ケウンは新君主としての信頼を得た[2]。
アルパ・ケウンとサティ・ベクの結婚
アルパ・ケウンは帰還後、オルジェイトゥ・ハンの娘で、チョバンの寡婦だったサティ・ベクを娶った[2]。この結婚はアルパ・ケウンの権力を固めるのに役立ち、彼は種々の口実の下で家柄、身分、財産などで顕著な人物、とりわけファールス州の富豪な官吏マフムード・シャー・インジュウを殺した[2]。
アリー・パーディシャーの挙兵
オイラト出身のバグダード長官アリー・パーディシャーはアルパ・ケウンを新ハンに推戴することを知らされていなかったため、その即位に反対し、フレグ・ハンの子孫であるムーサ[注釈 2]をハンとして擁立し、アルパ・ケウンとギヤースッディーン・ムハンマドに忠誠的ではない諸将を味方につけて進軍を開始した[4]。アルパ・ケウンはアリー・パーディシャーの軍を包囲するため、数部隊を各方面から前進させた[4]。しかし、これらの部隊の指揮官たちは双方が血を流すことなく和解するであろうと希望して、この進軍を実行しなかった[4]。そうこうしている間にアリー・パーディシャーは自分がアミール・アル=オメラー(大元帥)に任命されるという条件でアルパ・ケウンに降伏することを申し出た[4]。ギヤースッディーン・ムハンマドはこれに同意せず、アルパ・ケウンがアリー・パーディシャーと通謀していると疑われた諸将を殺そうとしたところを諫止した[4]。アルパ・ケウンは大軍を率いてアッラーンのカラバグを出発し、1336年4月29日(ラマダーン月17日)、ジャガトゥ地区で敵と遭遇した[4]。戦闘の最中にギヤースッディーン・ムハンマドに深い憎悪を抱いていたアミール・マフムード・エセン・クトルグとスルターン・シャーは敵軍に投降した[4]。アルパ・ケウンの軍隊は優勢であったにもかかわらず敗北し、逃走した[4]。長い間抵抗したギヤースッディーン・ムハンマドとその弟ピール・スルターンはマラーガの付近で追いつかれ、捕らえられた[4]。アリー・パーディシャーはギヤースッディーン・ムハンマドを助命しようとしたが、彼の諸将が一致して彼の処刑を要求したため、ギヤースッディーン・ムハンマドを殺した[4]。数日後ピール・スルターンも処刑され、アリー・パーディシャー傘下の徒党たちはタブリーズにあるギヤースッディーン・ムハンマドらの財産を掠奪した[3]。
アルパ・ケウンの死
アルパ・ケウンはスィジャース地区で捕らえられ、ウージャーンへ送られてアミール・シャラフッディーン・マフムード・シャー・インジュウの相続人に渡され、反坐法(タリオン)を適用されたうえで処刑された[3]。アリー・パーディシャーは勝ったものの、その諸将から十分な尊敬を受けていなかったので、彼の忠誠をあてにするわけにはいかなかった[3]。ディヤールバクルの長官ハーッジー・トガイはルームの長官アミール・シャイフ・ハサン(小ハサン)のもとへ逃げ、ハン位を奪うようそそのかした[3]。バグダード・ハトンの旧夫でジャライル部出身のシャイフ・ハサン(大ハサン)はフレグ・ハンの子孫のムハンマドという者をスルターン(イルハン)に擁立した[5]。