シャルル・イリアルト
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シャルル・イリアルト(Charles Émile Yriarte、1832年12月5日 - 1898年4月7日)は、フランスの著作家である。美術やスペイン、イタリアの歴史、普仏戦争に関する著作を行った。
パリで生まれた。母親のジョセフィーヌ・カロリーヌ・イリアルト(Joséphine Caroline Yriarte: 1810-1873)は17世紀初めにパリに移ってきたスペイン人の家系で、カロリーヌ・マルケッティ(Caroline Marchetti)の芸名の女優であった。
パリ国立高等美術学校で建築を学び、建築家のシモン=クロード・コンスタン=デュフォー(Simon-Claude Constant-Dufeux: 1801–1871)の教室で学んだ[1]。
建築や美術の教師をした後、1856年に政府の建築物の検査官になり、1859年にパリの新聞、「ル・モンド・イリュストレ」の特派員としてスペイン・モロッコ戦争の取材のためスペインを訪れた。スペイン軍の指揮官、レオポルド・オドンネルのスタッフとしても働いた。戦争の取材が終わった後、スペイン滞在を続け、当時まだ世間には知られていなかったスペインの画家、フランシスコ・デ・ゴヤを研究し、その成果は1967年になって「ゴヤの生涯と作品(Goya, sa vie, son œuvre)」の出版となった。1860年にはイタリアも旅し、後にイタリアの歴史上の人物に関する著作も行った。
1861年にパリに戻ると、建設中のパリ、オペラ座の建築検査官を務め、自身のイラストを掲載したスペインやスペイン・モロッコ戦争に関する作品を執筆し、出版した[2] 。1864年に雑誌「ル・モンド・イリュストレ」の芸術や文芸部門のスタッフになるために、建築の仕事は止めた。『通りのセレブ(les Célébrités de la rue)』という作品を出版し、作家としての名声を得た。マルキ・ド・ヴィルメール(Marquis de Villemer)というペンネームで、隔週刊の文芸紙だった絵入り新聞「ル・フィガロ」に記事を書き始め、これらの記事は、後に『パリジャンの肖像とコスモポリタンの肖像』というタイトルで出版された。
1870年の普仏戦争の後、それに関する著作もした。
フランス学士院の Prix Thérouanne(1875年)や Prix Marzelin-Guérin(1882年)、Prix Vitet(1889年)を受賞し、1877年にレジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受勲し、1889年にレジオンドヌール勲章(オフィシエ)を受勲した。
1898年にパリで亡くなった[3]。