フランス北部ソンム県のフィン(Fins)の農園で生まれた。9歳になった1826年に父親が亡くなり、3人の子供たちは母親に育てられた。少年時代に弁護士事務所で働き、絵を描くのが好きで、母親はペロンヌのジュール・デュフール(Jules Dufour)という画家に弟子入りさせた。デュフールのアトリエでは詩人・彫刻家のエクトール・クリノン(Hector Crinon: 1807-1870)と知り合った。
1835年にパリに移り、ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)やフランソワ・ボンヴァン(1817-1887)といった画家が学んだ私立の美術学校のアカデミー・シュイスで学んだ。1838年に故郷ペロンヌの画家オーギュスト・ドオシー(Auguste Dehaussy)に勧められてベルギーのアントウェルペンでフランドル絵画を研究した。フランスに戻り、パリのサロンに出展し、肖像画家として働いた後、1843年にパリ国立高等美術学校に入学した[1]。
1847年に母親が亡くなり、1848年のフランス革命の混乱が収まった後、故郷に戻り、1850年にソンムの代議士のニコラ・フェリックス・アルレから妻と2人の娘の肖像画を描く注文を受け、その娘と1854年に結婚することになった。1851年にイタリアに旅し、宗教画を描くようになった。結婚後イタリアを旅した後、夫妻はパリに住んだ。1855年のパリ万国博覧会の展覧会に出展し、1860年代はパリのサロンやソンムの展覧会で何度かメダルを受賞した。
妻は1864年に亡くなり、1870年に普仏戦争が始まると、3人の子供とパリを離れブルターニュのディナンに避難し、その時期ランス川のほとりの修道院跡などを描いた。
その後も肖像画家として収入を得て、歴史画も描き作品は版画として出版された。
1905年にインフルエンザによりパリで亡くなった[1]。