シャルル=ニコラ・コシャン
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シャルル=ニコラ・コシャン Charles-Nicolas Cochin | |
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アレクサンドル・ロスランによる肖像画 | |
| 生誕 |
1715年2月22日 フランス、パリ |
| 死没 |
1790年4月29日(75歳没) フランス、パリ |

シャルル=ニコラ・コシャン(Charles-Nicolas Cochin、1715年2月22日 - 1790年4月29日)は、フランスの版画家である。王立絵画彫刻アカデミーの会員に選ばれ、事務長なども務めた。同名の版画家の父親(Charles-Nicolas Cochin père: c.1757-c.1828)と区別するために「息子のシャルル=ニコラ・コシャン(Charles-Nicolas Cochin le fils)」や「若いほうの~(Charles-Nicolas Cochin le Jeune)」、シャルル=ニコラ・コシャン2世とも呼ばれる。
パリで生まれた。同名の父親は版画家[1] で母親のルイーズ=マグドレーヌ・ホルテルメル(Louise-Magdeleine Horthemels: 1686–1767)はオランダ出身の書店の娘で、版画家として1707年まで働いていた[2][3]。母親の姉のマリー・アンヌ・ホルテルメル(Marie-Anne Horthemels)も版画家で、国王の宮廷版画家のニコラ=アンリ・タルデュー(Nicolas-Henri Tardieu: 1674-1749)と結婚していた[2]。母の妹のマリー・ニコル・ホルテルメル(Marie-Nicolle Horthemels: 1689-??)も宮廷の肖像画家のアレクシス・シモン・ベル(Alexis Simon Belle: 1674-1734)の2度目の妻であった[4] 。
こういった家柄もあって、彫刻家として早くから認められ[5]、1737年になるころには、国王ルイ15世(在位:1715年-1774年)から注文を受けて、宮廷での行事を題材に版画を制作し、1739年から「Menus-Plaisirs du Roi」という組織の公式版画家に任じられた。
1749年から1751年の間は、ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人に選ばれて、夫人の弟で後にマリニー侯爵となるアベル=フランソワ・ポワソン・ド・ヴァンディエールに随行し、建築家のジャック=ジェルマン・スフロ(Jacques-Germain Soufflot)や美術評論家のジャン・ベルナール(Jean-Bernard, abbé Le Blanc)と同行しイタリアに旅した。この旅の後、1753年に、同行したジェローム・シャルル・ベリカール(Jérôme Charles Bellicard: 1726-86)と共著で、ヴェスヴィオの噴火によって埋没したイタリアの古代都市、ヘルクラネウムの古代遺物に関する著作を出版した。
フランスに帰国すると、1751年11月に、王立絵画彫刻アカデミーの会員に推薦され、入会申請作品を制作することなくアカデミーの仕事に就き、入会申請作品を発表するのはずっと後の1763年になってからであった。1752年に、王室の筆頭画家のシャルル=アントワーヌ・コワペルが亡くなると、コワペルの後任として国王の美術品管理の職務に任命され、ルーブル宮殿に部屋を与えられた[1][5][6]。王室造営物総監の役職に就いたマリニー侯爵のために働いた。
画家、版画家としては、多くの歴史画や肖像画や、書籍の挿絵、版画を制作した。