ジェス・オルテガ

From Wikipedia, the free encyclopedia

リングネーム ジェス・オルテガ[1]
ブル・オルテガ[1]
ヘスス・オルテガ[1]
マイティ・オルテガ[1]
マイティ・ウルスス[1]
ジェス・カーディナス[1]
ヘスス・カーディナス[1]
ラ・ロカ・オルテガ[1]
ラ・ロッカ・オルテガ[1]
オルテガ・サン[2]
エル・トロ[3]
本名 ヘスス・メレンデス・オルテガ
(Jesus Melendez Ortega)[1]
ニックネーム メキシコの巨象[3]
狂える巨象[4]
身長 193cm[3]
ジェス・オルテガ
プロフィール
リングネーム ジェス・オルテガ[1]
ブル・オルテガ[1]
ヘスス・オルテガ[1]
マイティ・オルテガ[1]
マイティ・ウルスス[1]
ジェス・カーディナス[1]
ヘスス・カーディナス[1]
ラ・ロカ・オルテガ[1]
ラ・ロッカ・オルテガ[1]
オルテガ・サン[2]
エル・トロ[3]
本名 ヘスス・メレンデス・オルテガ
(Jesus Melendez Ortega)[1]
ニックネーム メキシコの巨象[3]
狂える巨象[4]
身長 193cm[3]
体重 145kg[3] - 160kg[5]
誕生日 1922年[1][3]
死亡日 (1977-07-28) 1977年7月28日(55歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[5]
カリフォルニア州の旗 カリフォルニア州[3]
デビュー 1945年[3]
テンプレートを表示

ジェス・オルテガJesse Ortega、本名:Jesus Melendez Ortega1922年[3] - 1977年7月28日)は、アメリカ合衆国プロレスラーカリフォルニア州出身。出自はメキシコ系移民とされるが、プエルトリコ系という説もある[4]

1940年に18歳で海軍に入り、ガダルカナル戦線に従軍[4]。除隊後の1945年にプロレス入りし、地元のNWAカリフォルニア地区で活動[3]

中南米移民の多いカリフォルニア地区ではベビーフェイスとして活躍し、1954年10月6日にエンリケ・トーレスと組んでシャープ兄弟からNWA太平洋岸タッグ王座を奪取[6]。同年11月9日にはサンフランシスコにてルー・テーズNWA世界ヘビー級王者に挑戦した[7]

1955年7月、日本プロレスに初来日。バッド・カーティスとの「中南米タッグ王者チーム」として参戦し、力道山&東富士の保持していたハワイ・タッグ王座とのダブルタイトル戦を2度行い、いずれも引き分けている[4]。以降も度々来日し、1959年5月にはワールド大リーグ戦の第1回大会に出場[8]。力道山と決勝を争うも敗退、準優勝となった[9]1963年の来日時には、2月9日に東京都体育館で力道山のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦している[4][10]

1966年10月より、ブル・オルテガBull Ortega)のリングネームでヒールとしてWWWFに進出。11月9日にボルチモア[11]、12月1日にワシントンDC[11]、翌1967年1月30日にはニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにて[12]ブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。WWWFではボボ・ブラジルエドワード・カーペンティアスパイロス・アリオンとも対戦し、同じヒール陣営のビル・ミラーゴリラ・モンスーンバロン・シクルナルーク・グラハムらとタッグを組んでいる[13]

1968年4月には日本プロレスへの5回目の来日を果たし、キラー・コワルスキーフレッド・ブラッシーターザン・タイラードミニク・デヌーチらと共に第10回ワールドリーグ戦に出場[14]。外国人陣営ではコワルスキーに次ぐ2位の戦績を残し、当時ジャイアント馬場が保持していたインターナショナル・ヘビー級王座にも挑戦[4]パット・パターソンをパートナーに吉村道明&大木金太郎アジアタッグ王座にも挑んだ[4]。これが最後の来日となったが、馬場とは1972年2月19日、アメリカのミシガン州デトロイトで再び対戦している[15]

1970年代マイティ・ウルススMighty Ursus)のリングネームでカナダを主戦場に活動。1973年にはトロントにてジョニー・バレンタインタイガー・ジェット・シンハンス・シュミットらと対戦した[16]。晩年の居住地となったカルガリースタンピード・レスリングでは、1975年7月18日にカーティス・イヤウケアの北米ヘビー級王座に挑戦している[17]。なお、マイティ・ウルススの名義ではWWWF入りする前の1966年1月6日、オレゴン州セイラムにてスタン・スタージャックと組み、シャグ・トーマス&ベアキャット・ライトを破ってNWAパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座を獲得している[18]

引退後は、オルテガ・サンOrtega-San)と名乗り、日本人ギミックの初代グレート・カブキ(レイ・ウルバノ)のマネージャーを担当していたこともあった[2]

1977年7月28日、カルガリーの自宅にて心臓発作のため死去[2][4]。55歳没[4]

得意技

獲得タイトル

脚注

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI