ジェフリー・トーザー
From Wikipedia, the free encyclopedia
| ジェフリー・トーザー Geoffrey Tozer | |
|---|---|
| 生誕 |
1954年11月5日 |
| 死没 |
2009年8月21日(54歳没) |
| ジャンル | クラシック音楽 |
| 職業 | ピアニスト、作曲家 |
| 公式サイト | geoffreytozerlegacy.com |
ジェフリー・ピーター・ビード・ホークショー・トーザー(Geoffrey Peter Bede Hawkshaw Tozer 1954年11月5日 - 2009年8月21日)は、オーストラリアのピアニスト、作曲家。神童であったトーザーは8歳でオペラを作曲し、13歳でチャーチル・フェローシップを最年少受賞した。ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなどへのツアーでキャリアを重ね、中国では推定8千万人の聴衆へ向けて『黄河協奏曲』を演奏した。トーザーは100曲以上のピアノ協奏曲をレパートリーにしており、その中にはモーツァルト、ベートーヴェン、リスト、ブラームス、チャイコフスキー、メトネル、ラフマニノフ、バルトーク、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ジェラールらの作品が並んでいた[1]。
トーザーはメトネルの作品を皮切りに、シャンドスレーベルへの録音を行っていった。「見事なリサイタル演奏家」と看做されていた彼は即興演奏の能力を持ち、管弦楽スコアを初見で「ただちに」ピアノ譜に落とし込んで演奏することができた[1]。世界各地で数々の賞を獲得して大きな評価を得ていたが、晩年のオーストラリアでは相対的に注目を浴びない状態に苦しめられた[2]。
タスマニアで身ごもったトーザーの母、ヴェロニカ・トーザー(旧姓ホークショー)は1954年にインドヒマラヤ山脈の避暑地であるマスーリーでトーザーを出産した。才能ある音楽家でピアニストであった彼女は、大佐(後に少将)ドナルド・トーザーとの離別、離婚後にはその能力で自身と2人の息子を支えた[3]。
彼女は著しく悪化した健康状態を回復させるため1954年にタスマニアを訪れた[3][4]。同地で彼女はジェフリー・コナン=デイヴィーズに出会う。彼は聖公会の牧師の息子であり、オックスフォード大学在学中に神学を独学で学んでいた。かつて東アフリカにあった植民地の行政官の職を退き、妻のアーミントルード(Ermyntrude、生誕名はマレット)との間に4人の子どもをもうけていた[1]。
その後、ヴェロニカはトーザーが生まれたインドへ戻っていく。ウーシャ(Usha)姫の寛大な措置により、トーザーは4年をインドで暮らすことになる[3]。3歳にして彼は、母が生徒に教えていたベートーヴェンの『熱情』ソナタから音符を拾ってみせていた[5]。
トーザーは母、そして兄のピーターとともに[6]、メルボルンへと移り住むことになった。そこでヴェロニカは彼にベートーヴェン、バッハ、バルトークを教えた[5]。マルヴァーンの聖ジョセフ教区学校に通うことになったが、そこでは歴史家のエドワード・ダイカーによると、彼は悪名高い小児性愛者である「ブラザー・アンゼルム[・ハーラム]による2年間にわたる暴力と有害なストレス」に晒されることになったという[7]。その後はド・ラ・サール・カレッジに通った[6]。
1962年、8歳になったトーザーはバッハのピアノ協奏曲第5番をクライヴ・ダグラスの指揮するヴィクトリア交響楽団と[1][5]、ABCテレビが全国放送するコンサートで演奏した。1964年4月にはメルボルンのニコラス・ホールにおいて、同じ作品をジョージ・ロジー=スミスの指揮するアストラ管弦楽団との共演で演奏している。1965年2月にはハイドンのピアノ協奏曲第11番をシドニー・マイヤー・ミュージック・ボウルの観衆の前で生演奏した。この時の演奏は彼のセレブレーション・フォーティー・ツアーに合わせて2004年に発売された音盤で聴くことができる。4年間のうちに彼はベートーヴェンの5曲のピアノ協奏曲を全て演奏した。
修行
トーザーはオーストラリアでアイリーン・ラルフとキース・ハンブルに、イングランドではマリア・クルチオ(アルトゥル・シュナーベルの最後の愛弟子)に[5][8][9]、アメリカ合衆国ではセオドア・レトヴィンに師事した[10]。アイリーン・ラルフが住んでいたのはホバートであったが、同地との間を毎週往復するトーザーのためにトランス・オーストラリア航空が運賃無料で彼を搭乗させたのであった[5]。彼は後年、ラルフの教育について「私がもらった最高の音楽の贈り物」と評している[5]。彼は14歳のときに史上最年少でリーズ国際ピアノ・コンクールのセミ・ファイナリストに残り[11]、そのすぐ後にはコリン・デイヴィス指揮のBBC交響楽団との共演で、ロイヤル・アルバート・ホールで行われるBBCプロムナードコンサートにてヨーロッパデビューを果たしている。また、最年少でチャーチル・フェローシップを受賞した。
1971年、16歳になったトーザーはベンジャミン・ブリテンの許で数週間滞在した。ブリテンの誘いでオールドバラ音楽祭で演奏することになった彼は、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィチの伴奏を行った[5]。
1982年にはメルボルン・コンサート・ホールの開館コンサートで演奏を披露した。1980年代初頭にはミシガン大学の教壇に立った。1983年からは拠点をキャンベラに移し、オーストラリア国立大学のANU音楽学校で一時教鞭を執ったものの[6]、演奏旅行やレコーディングにより継続困難となった。彼の初期の録音は発売されていない。初となる商業録音はジョン・アイアランドのピアノ協奏曲であり、デイヴィッド・ミーシャム指揮、メルボルン交響楽団との共演だった。1989年にはピーター・スカルソープと共同で、スカルソープのピアノと弦楽合奏のための作品を録音した[5]。
キャリア後期
タチアナ・ニコラーエワが1990年代にオーストラリアを訪れた際、彼女はトーザーを念頭に「ロシア人のように演奏できる人」を紹介してくれるように頼んだという[5]。1993年に初の中国ツアーに繰り出した彼は、北京、上海、南京などの都市を巡った。1994年にはエドワード・ダウンズの指揮するBBCフィルハーモニックとともにオットリーノ・レスピーギの4曲あるピアノ協奏曲の全曲を初めて録音した。
2001年5月には西洋の奏者としては初めて中国において『黄河協奏曲』を演奏した[10]。これは中国文化省による招待公演であった[5]。スタンディングオベーションを受けた彼の演奏は中国国営テレビによりライブ中継され、8千万人の聴衆が観たものと推定される[6]。
2003年5月にコリン・マクフィラミーとの共演によりニューヨークで開催したリサイタルでは、ニコライ・メトネルの作品を米国初演した。次いでバーミンガムで舞台に上がった際には、メトネルの高弟であった故エドナ・アイルズに演奏を捧げた。
トーザーは演奏機会に恵まれないレスピーギ、アラン・ロースソーン、ジョン・ブラックウッド・マキュアン、エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト、ロベルト・ジェラール、パーシー・グレインジャー、ジョン・アイアランド、ニコライ・チェレプニンなどの作曲家の音楽を擁護した。ある時のベルリン音楽祭では、彼は本人の親族が勢揃いする中でオール・シュナーベル・コンサートを開催し、シュナーベル作品の録音も手掛けた。
また、トーザーは1953年に他界した、彼と同郷でやはり神童であったノエル・ミュートン=ウッドのことも擁護した。トーザーは彼について次のように語っている。「彼はオーストラリアがかつて生み出した中で最も刺激的で最も知力の高いピアニストである。作品がCDで再版される以前の彼は完全に忘れられていたが、彼の演奏がいかに革命的であったかということに誰もが気付いたのだった[12]。」トーザーは7歳のときにミュートン=ウッドの恩師であったウォルデマー・サイデルのためにバッハとベートーヴェンを準備していた際に初めて彼のことを聞いたのだった。「私が数小節を弾くと彼は『ノエルの再来だ』と叫んで飛び上がった。もちろん、私はその人物について聞いたことがなかった。しかし、彼の録音を聴いた私は、それがそれまでに受けた中で最大の音楽的賛辞であることを悟ったのである。」トーザーは1944年の映画『Tawny Pipit(英語版)』のためにミュートン=ウッドが書いた音楽の一部をピアノ独奏用に編曲している[13]。
また、トーザーは三木稔のオペラ『あだ』の声楽譜のピアノ編曲版を制作した[14][15]。
トーザーは即興演奏の腕前によって知られていた。彼はときにリサイタルの最後を、聴衆がその場でリクエストした主題や作風を用いた即興演奏で締めていた。
2003年1月、ミリアム・ハイドの90歳の誕生日を祝う催しとして、オーストラリア放送協会(ABC)はシドニーのユージン・グーセンス・ホールでトーザーが彼女の作品を演奏する模様を生放送した。曲目はピアノソナタ ト短調他であった。2005年にはオーストラリアン・インスティチュート・オブ・ミュージックでわずか15人の聴衆を前に彼女の2つのピアノ協奏曲から1曲を演奏した。ハイドはその協奏曲にはトーザーのように力強く演奏する者が必要だと述べた[5]。
トーザーの没後に出た死亡記事において、オーストラリア首相を務めたポール・キーティングは、オーストラリアの芸術界がトーザーに向けた「無関心」と「悪意」を非難した[16]。彼がメルボルン交響楽団と最後に演奏したのは1994年、シドニー交響楽団との最後の演奏は1995年だったのである[5]。
受賞歴
トーザーは生涯で複数の主要な賞を2度受賞している。チャーチル・フェローシップを14歳で初めて、17歳で再度獲得した。これはチャーチル委員会がトーザーの才能を認めて受賞最少年齢を5歳引き下げたことによって可能となった[5]。イスラエルのルービンシュタイン・メダルは1977年と1980年に授与されており、最初の受賞時にはアルトゥール・ルービンシュタイン本人から賞を手渡しされている。ルービンシュタインはトーザーを「並外れたピアニスト」と評した[5]。
1990年代にはオーストラリア芸術家創造的フェローシップを連続で獲得しており、金額の総計は50万オーストラリア・ドルを上回るものだった[12]。この奨励金はポール・キーティングが聖エドマンド・カレッジで教えるトーザーに出会ったことで創設された[17]。キャンベラに所在する同校にはキーティングの息子パトリックが通っていたのである。トーザーをオーストラリアの最も偉大なピアニストと述べるキーティングは、トーザーほどの才能を持つピアニストが年間9千豪ドルしか稼げないことを「恥ずかしい」と述べ、フェローシップを導入することになった(これは「ザ・キーティングズ」と呼ばれることもある)。1989年の初回の5年間の賞(32万9千豪ドル)はトーザーに贈られた[6]。トーザーは少なくとも一度、風刺漫画の題材となっている[18]。
このフェローシップにより、トーザーはロンドンに赴いてレコーディングに臨むことができるようになった[19]。彼はニコライ・メトネルのピアノ独奏曲の大半を録音した[20]。ネーメ・ヤルヴィ指揮、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのメトネルのピアノ協奏曲全3曲のシャンドスレーベルへの録音は、1992年にディアパソン・ドールを獲得、グラミー賞にもノミネートされた[6]。フランスの評論家アラン・コシャールはトーザーのメトネル録音を評して「録音史に残る」と述べた。彼はこうも書いている。「メトネルが求める全てをトーザーは有している。これは大巨匠の演奏である。そこに疑いの余地はない。」2001年に、トーザーはメトネルの没後の周年企画としてメルボルンで満員の聴衆を集めてメトネル作品によるリサイタルを開催した。しかし、この演奏会にはメディアの評論はひとつも付かなかった[5]。
その他、トーザーが獲得した国際的な賞にはリスト百周年記念メダル(ハンガリー)、Alex de Vries賞(ベルギー)、王立オーバーシーズ・リーグ・メダル(イギリス)などがあるが、オーストラリア国内では同等の賞を獲得していない。
1996年のフェルッチョ・ブゾーニのピアノ作品の録音では「年間最優秀録音」としてサウンドスケープ賞(オーストラリア)を獲得した。
トーザーの未発表の音源には、テノール歌手のジェラルド・イングリッシュとのマイケル・ティペットの連作歌曲『少年時代の終わり』など、歴史的な関心を引くものが含まれている[4]。
最期
トーザーが1996年の母の他界、そして1997年に長くマネージャーを務めたルーベン・ファインバーグの死去に影響を受けていたことは疑いようのないところであるが、一部の死亡記事が主張するように彼が「体調を崩しながらも続けていった」かどうかには議論の余地がある[4]。医療記録によれば、彼の不調は少なくとも母の死後7年経つまでは顕在化していないという[21]。
2009年8月21日[4][22]、彼は肝臓の病により息を引き取った。死が迫った前週にアルフレッド病院を退院して、幼少期を過ごしたメルボルン、イースト・マルヴァーンの自宅に戻ってきて迎えた最期だった。6人きょうだいの中で2番目に早い旅立ちであった[6]。
公開追悼礼拝が2009年10月1日にセント・パトリック大聖堂で開催された。45分にわたって続いた辛辣な弔辞の中で[17][23]、首相を務めたポール・キーティングは次のように述べた。
[トーザーは]オーストラリア3人衆のネリー・メルバ、パーシー・グレインジャー、ジョーン・サザーランドと並んで記憶されるに値する人物でありながら、メルボルンとシドニーの交響楽団からは無関心、侮辱、悪意のある扱いを受けた。この期間にこれら2つの管弦楽団の選曲を行った者とアーティストの選定に責任を有していた者は彼を黙殺したことを恥じ入り縄に首を吊るさねばならない。(中略)もしオーストラリアの芸術における低俗さと嗜好の実例を必要とする者がいるなら、ここにあるものがそれである。
キーティングはトーザーの死について「カナダがグレン・グールドを、またはフランスがジネット・ヌヴーを失ったようなものである。多大なる文化的損失であり、ドイツがドレスデンを失った際に感じるのと同種の喪失感である」と表現した。彼はトーザーをエミール・ギレリス、アルトゥール・ルービンシュタイン、スヴャトスラフ・リヒテル、フェルッチョ・ブゾーニ、アルトゥル・シュナーベルといったピアニストたち、そして1977年にパリで孤独に生涯を終えたマリア・カラスになぞらえた。キーティングはこうも述べている。「最期、彼の肝臓がダメになった。しかし、我々全員が彼を見殺しにしたと言わねばならないと思う。(中略)もっとたくさん気にかけ、もっと多くのことをしてやるべきだった[17]。」ジェニン・ホスキングが2018年に制作したリチャード・ギルを主演としたトーザーに関するドキュメンタリー『The Eulogy』は、キーティングのスピーチに触発されて生まれた作品である[24][25][26]。