ジェームズ・アイヴォリー (数学者)
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経歴
著名な時計屋のジェームズ・アイヴォリーの息子としてダンディーに生まれた。ジェームズ一家はダンディーのハイ・ストリートで暮らしていた[2]。
アイヴォリーはダンディー・グラマースクールで初等教育を受け、1779年にセント・アンドリューズ大学に入学した。特に数学で好成績を収めた。その後は神学を学んだが、アンドリューズ大学で2学期、エディンバラ大学で1学期を過ごした後に、教会のすべての考えを捨てて、1786年からダンディー・アカデミーの数学と自然哲学の補助講師となった。3年後、フォーファーシャーのダグラスタウンにある亜麻紡績会社の共同経営者・責任者となり、余暇には数学の研究を営んだ。実質的に独学で数学を学び、幾何学を深く熟知しただけでなく、当時の解析学の知識も十分に持っていた[2]。
アイヴォリーの最初期の論文は、楕円の弧長における解析的表現の処理に関するもの[3]で、1798年にエディンバラ王立協会の紀要で発表された。他に三次方程式に関する論文 (1799) とケプラーの問題に関する論文 (1802) などが発表されている。亜麻紡績会社解散後の1804年、グレートマロウ王立陸軍大学の数学教授に就任し、1816年に体調を崩して退職するまで続けた[4]。
この間に、アイヴォリーは『フィロソフィカル・トランザクションズ』でいくつかの重要な論文を発表して、1814年にコプリ・メダルを受賞し、1815年に王立協会フェローに選出された。引力の歴史において特に重要なものは最初期の論文 (1809) で、アイヴォリーは均質な楕円体の外部の点への引力を、対応する楕円体の内部の点への引力という比較的単純な状況へ還元した。これは、アイヴォリーの定理として知られる[4]。 また、アイヴォリーは匿名で『ユークリッド原論』の改訂版を発表しており、難しい問題を "more within the reach of ordinary understandings"(通常に理解できる範囲に)持ち込んだと述べられた[5]。後年の論文では、大気屈折、惑星の摂動、流体の質量の平衡性などについて扱っている。これらの研究によって、1826, 1839年にロイヤル・メダルを獲得した[4]。
1831年、ブルームの推薦でウィリアム4世はアイヴォリーに300ポンドの年金を保証し、ロイヤル・ゲルフ勲章騎士を授与した[4]。アイヴォリーは出身国の主要科学協会であるエディンバラ王立協会や王立アイルランド学会と直接の関係を持っており、またパリやベルリン、ゲッティンゲンの王立協会・学会の通信会員であった[4]。