ジェームズ・スミス=スタンリー
From Wikipedia, the free encyclopedia
第5代準男爵サー・エドワード・スタンリー(後の第11代ダービー伯爵)とエリザベス・ヘスキス(Elizabeth Hesketh、1694年8月29日 – 1776年2月24日、ロバート・ヘスキスの娘)の息子として、1717年1月7日に生まれ、29日にプレストンで洗礼を受けた[1]。1729年にウェストミンスター・スクールに入学、1735年にライデン大学に進学したのち、1737年頃にグランドツアーに出た[3][2]。
ダービー伯爵家はランカシャー選挙区で1議席を支配するほどの影響力を有したものの、1736年に10代伯爵ジェームズ・スタンリーが死去すると、それまでの議員だった5代準男爵サー・エドワード・スタンリーが爵位を継承して11代伯爵になった[4]。これにより補欠選挙が行われたが、11代伯爵の長男にあたるストレンジ卿が未成年だったため、ダービー伯爵家は候補者を出せず、議席をトーリー党のピーター・ボールドに奪われた[4]。そして、1741年イギリス総選挙ではストレンジ卿が成人していたため出馬し、無投票で庶民院議員に当選した[4]。以降1771年に死去するまで同選挙区で再選を繰り返した[3]。
議会では無所属として行動したが、ホレス・ウォルポールは1749年に「全般的にはトーリー党側で投票している」と記述している[3]。1744年のフランスによるイギリス侵攻計画や1745年ジャコバイト蜂起ではハノーヴァー朝を支持したが、部隊招集に向けた募金を「チャールズ1世の暴挙に例えて」反対した[3]。以降もヘンリー・ペラムの首相期には野党の立場を維持したが、1751年に政府が主張した土地税率据え置きに賛成した[3]。
1757年初に行われたジョン・ビングの軍法会議に関する弁論ではビング側に立ち、軍法会議の裁判官を批判した[2]。同年4月と6月の2度にわたり、ヘンリー・フォックスが組閣を試みたとき、ストレンジ卿はフォックスの組閣が失敗すると見抜いて、自身がかねてより望んでいたランカスター公領大臣への就任を辞退した[2]。同年から1771年までランカシャー統監を務めた[1]。
1761年12月に大ピット派議員ジョージ・クックが提出した動議に賛成したことで国王ジョージ3世が(北部担当国務大臣の第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートへの手紙で)不快感を示したが、翌年5月までにストレンジ卿のランカスター公領大臣就任が議論されるようになり、11月に第9代キノール伯爵トマス・ヘイがランカスター公領大臣から辞任するとストレンジ卿は12月にその後任に任命され[2]、同12月15日に枢密顧問官に任命された[1]。しかし、大臣としての賃金1,200ポンドの受け取りを拒否し、宮廷から距離を置いたほか、与党側に立つことをせず無所属議員を貫き通し、ジョン・ウィルクスの誹謗文書事件では首相ジョージ・グレンヴィルと同じくウィルクスを批判したものの、批判の内容は異なったという[2]。
第1次ロッキンガム侯爵内閣期(1765年 – 1766年)には1765年印紙法の廃止に反対票を投じ、チャタム伯爵内閣期(1766年 – 1768年)では与党側に立ったとされ、グラフトン公爵内閣期(1768年 – 1770年)ではウィルクスの庶民院議員就任に強硬に反対し、ノース内閣期(1770年 – 1782年)ではロンドン市長ブラス・クロスビーによる議事録出版問題をめぐりクロスビーのロンドン塔投獄を支持したとされる[2]。
1771年6月1日にバースで卒中を起こして死去、オームズカークで埋葬された[1]。父に先だって死去しており、爵位を継承することはなかった[1]。遺言状では「ストレンジ子爵」の儀礼称号を使用した[1]。