ジェームズ・バトラー (初代オーモンド侯爵)
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第17代オーモンド伯爵ジョン・バトラーとスーザン・フランシス・エリザベス・ワンズフォード(Susan Frances Elizabeth Wandesford、1754年ごろ – 1830年4月3日、初代ワンズフォード伯爵ジョン・ワンズフォードの娘)の息子として、1774年7月15日にキルケニー城で生まれ[1]、26日にキルケニーで洗礼を受けた[2]。1783年から1790年までイートン・カレッジで教育を受けた[3]。1790年にコルネットとして軽騎兵第14連隊に入隊、1792年に中尉に、1793年に大尉に、1799年に少佐に昇進した後、1802年に軍務から引退した[3]。
1796年3月にキルケニー・シティ選挙区でアイルランド庶民院議員に選出されたが、一度も登院しないまま同年5月28日にアルスター復帰不動産管理官(Escheator of Ulster)に任命され、6月をもって議員を退任した[4]。同年にキルケニー・カウンティ選挙区で当選してアイルランド庶民院議員に復帰、1801年にアイルランド王国とグレートブリテン王国の合同により連合王国議会が成立したときもカウンティ・キルケニー選挙区の代表として連合王国庶民院議員を続投した[4]。アイルランド庶民院では1799年2月に合同法案に賛成票を投じたが、1800年に反対票を投じた[5]。連合王国庶民院では摂政王太子ジョージ(後の国王ジョージ4世)の盟友として行動したが、特定の内閣を支持することはなかった[1]。投票記録では選挙法改正に反対(1810年5月)、カトリック解放には毎年のように賛成した(1808年5月、1810年6月、1811年5月、1812年4月、1813年5月、1815年5月、1816年5月、1817年5月、1819年5月)[5]。庶民院議員を長年務めたにもかかわらず、最初の演説の記録は議員就任から20年近く経過した1818年5月であり、その内容はアイルランドにおける窓税に反対するものだった[5]。
1806年にキルケニー民兵隊の副隊長に任命され、1820年に隊長に昇進し、以降死去まで務めた[3]。また、1808年から1809年までと1814年から1815年までの2度にわたってキルケニー市長を務めた[1]。
1820年8月10日に兄ウォルターが死去すると、オーモンド伯爵位と毎年2万ポンド以上の収入が得られる領地を継承した[2][1]。1821年戴冠式記念叙勲において、1821年7月17日に連合王国貴族であるモンマスシャーにおけるスランソニーのバトラー男爵に叙され[2][6]、直後の7月19日に聖パトリック勲章を授与された[3]。1825年10月5日にアイルランド貴族であるオーモンド侯爵に叙された[2][7]。貴族院では穏健派トーリー党に属し、1832年に第1回選挙法改正に賛成票を投じた[1]。
1822年4月20日にレンスター海軍次官に任命され、以降1831年8月22日と1837年12月29日に再任され、死去まで務めた[8]。1831年10月7日にキルケニー統監に任命され、こちらも死去まで務めた[9]。
