ジャン=アントワーヌ・ノレ
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1715年からボーヴェのコレージュ・ド・クレルモンで人文学を学び、1724年にパリ大学の神学部で修士号を取得した。1728年にカトリック教会の助祭に叙階されたが、聖職者としてのキャリアは中断している[1]。しかし、生涯を通じてアベ(Abbé)の称号を用いた。特に新しい科学である電気に興味を持っていた。1728年にSociété des Artsに入った。Société des Artsはクレルモン伯の後援を受けて設立され、自然科学を実用的な技芸に応用することに重点を置いていた団体であった[2]。この団体を通じて重要な自然哲学者と接する機会を得た[3]。特に、王立科学アカデミーの主要会員であったデュ・フェとレオミュールと交流した可能性が高い。1731年から1735年ごろまで幅広い分野(例えば昆虫の解剖、カエルの受精、温度測定、空気力学、燐光、磁気、電気など)の実験でデュ・フェの助手を務めた[1]。1731年から1733年にかけては、特に電気実験においてデュ・フェの助手を務め、デュ・フェとともに1734年にはイギリスの物理学者に会いに行き、1736年にはオランダに行った[4]。1734年からロンドンの王立協会の会員であった。ピーテル・ファン・ミュッセンブルークにより発明された静電気を蓄える装置にライデン瓶と名付けたといわれている。自身の実験器具の資金を調達するため、1735年に複製器具の製造と販売を始めた[5]。
少なくとも1743年以降、王立科学アカデミーはノレを特に電気に関する研究を担当する人物として位置付けていた[6]。
1753年にパリ大学コレージュ・ド・ナヴァルでフランス初の実験物理学教授に就任した[7][8]。1762年には王立科学アカデミーの長に任命された[8]。
器具を用いて物理学を普及させることを目的とした講義を行った。これらの講義はLeçons de physique expérimentaleやL’Art des expériencesとしてまとめられ出版され、19世紀を通じて独学の科学者たちにインスピレーションを与え続けた[9]。
科学的業績


行った静電気に関する多くの実験の1つに「電気少年」("Electric boy")がある。この実験は、若い男性を絶縁性の絹の紐を使って天井から吊り下げ、電気を流し、体に電荷を蓄積させるというものである。物体は男に引き寄せられ、他の人が近くにいると火花が散る可能性もあった[10]。
1746年には約200人の修道士を円周約1マイル(1.6キロメートル)の円状に集め鉄線でつないだ。その後、ライデン瓶の放電をつないだ鉄線を通して行い、各人がほぼ同時に電気ショックに反応するのを観察した。このことは電気の伝搬速度が非常に速いことを示している[11]。
1748年に天然の膜における浸透現象を発見した。エタノールの入ったフラスコの口を豚の膀胱で覆い、水に浸した。5、6時間後に豚の膀胱は凸状になり、穴をあけると液体が1フィート(約30センチ)以上も噴出した[12]。
1750年に現在静電スプレーとして知られる現象を初めて報告した[14]。ノレは容器が通電され電気接地の近くに置かれている場合、容器から流れる水がエアロゾル化することに気づいた。
