ジャン=ガブリエル=トーラン・デュフレス
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略歴
デュフレスはクレルモン司教区のルズーで生まれた。1774年にパリ外国宣教会に入会し、1775年に中国に派遣された。当時の清は禁教政策を取っていたが日本のように厳格ではなく、四川省にはフランソワ・ポティエ(范益盛、1726-1792)によってパリ外国宣教会の拠点が作られていた。デュフレスは1778年から成都で布教した。
1784年から翌年にかけて、乾隆帝はキリスト教の弾圧を行った。これは当時反乱を起こしたイスラム教徒とキリスト教徒が結びついているという陰謀説に従ったためという[2]。デュフレスはマカオに追放されたが、1788年に徐徳新と名を変えてひそかに四川に戻った[1]。1800年にはタブラカ代理司教、翌年に四川使徒座代理に任命された[3]。1803年に重慶で四川教会第一次大会と呼ばれる大会を主催した[1]。
嘉慶帝は1811年に禁令「西洋人伝教治罪専条」を出し、キリスト教を厳しく取りしまった[4]。デュフレスは1815年に捕えられ、もうひとりの司教および9人の司祭とともに9月14日に成都で斬首された。
