ジャーヌ・バトリ
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パリ出身で本名はジャンヌ=マリー・ベルチエ(Jeanne-Marie Berthier)といった。
当初はピアノを学び、演奏会ピアニストになることを計画していたが、やがて声楽に転向し、1898年にラ・ボディニエール小劇場においてポール・ヴェルレーヌを称える演奏会が行われた際に、職業歌手としてデビューを果たした。同年、パリ音楽院管弦楽団演奏協会大演奏会にデビューして、ガブリエル・フォーレの《ヴィーナスの誕生(La Naissance de Vénus)》やカミーユ・サン=サーンスの《死者のためのミサ曲(Messe de Requiem)》の上演に参加した。1899年から1900年のシーズンにおいては、メゾソプラノのオペラ歌手としてナントにデビューしている。
1900年代初頭に、30歳年長のピエール=エミール・エンジェル(Pierre-Emile Engel, 1847年生)の指導を受け、1905年(一説には1908年)にエンジェルと結婚した。
1917年にヴィユ・コロンビエ劇場(ヴュー・コロンビエール劇場、Théâtre du Vieux-Colombier)の監督に就任。当時フランスの新進作曲家であった、ルイ・デュレ、アルテュール・オネゲル、ダリウス・ミヨー、ジェルメーヌ・タイユフェール 、フランシス・プーランク、ジョルジュ・オーリックらのコンサートを行い、後の「フランス6人組」が結成されるきっかけを作った[1]。
第1次大戦後は、スカラ座に出演するなどヨーロッパ各地の大劇場で活動した。1930年代にはアルゼンチンのコロン劇場に出演し、第二次世界大戦中にナチス・ドイツがフランスに進駐すると、ブエノスアイレスに居残った。
戦後に帰国して数多くの後進の指導に当たり、高齢になると演奏会から引退したが、伴奏者としては演奏活動を続け、1945年にピアノ伴奏でマドレーヌ・グレイと共演している。『ドビュッシーが自作で教える歌唱法』といった著作も遺した。
1970年1月25日、パリに永眠し、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。