オランダ改革派教会の宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウンの長女として、父の伝道地であるマカオで1840年2月18日に生まれた[1]
[注 1] 。父は開港直後の1859年11月1日に来日し、神奈川の成仏寺に住んだ[1]。約2ヶ月後の12月29日、上海で待機していた母とジュリアたち子ども3人が来日した[1]。19歳のジュリアは、若い独身男性が多い初期の外国人社会では目立つ存在だった[1]。
ジョン・F・ラウダーは1860年、17歳のときイギリス外務省領事部門の日本語通訳生として来日した[1]。当時は成仏寺のブラウン宅で礼拝が行われており、聖公会の信徒も参加していた[1]。ハーモニウムを演奏するジュリアをジョンが見初め、二人は1862年9月13日にイギリス領事館で結婚した。司式はベイリー牧師がつとめた[1]。
夫婦ともに居留地社会の名士となり[1]、ジュリアは横浜婦人慈善協会(Ladies' Benevolent Association of Yokohama)会長、横浜王女会(King's Daughters' Circle of Yokohama)会長、国際婦人図書室(Ladies’ International Reading Room)役員、レディズ・ローン・テニス&クロッケー・クラブ(横浜インターナショナルテニスコミュニティの前身)の役員をつとめた[1]。
1902年に山手203番の自宅でジョンが亡くなった後も、横浜在住外国人の長老格として敬愛された[2]。
1907年ごろ、ジュリアは逗子に移り住み、海岸に面した自宅で英語のバイブル・クラスを開き、教師をつとめた[2]。バイブル・クラスで学んだ人たちがクリスチャンとなり、ジュリアは横浜からH・B・ウォルトン司祭を招いて週1回礼拝を行うようになった[2]。ウォルトン司祭は資金を調達して浜田881番地に教会を建てた[2]
[注 2] 。
ジュリアはオルガニストをつとめ、教会の調度品を提供した[2]。
ジュリアは1899年に日本陸海軍人伝道義会を設立したエステラ・フィンチと共に軍人や船員対象の伝道につとめた[1][2]。会員たちはフィンチをマザー、ジュリアをグラニー(おばあさん)と呼んで親しんだ[1][2]。伝道義会で使われたオルガンやピアノはジュリアが寄付したものだった[1][2]。
ジュリアは1919年8月18日に亡くなり、横浜外国人墓地のジョンの墓地(イギリス4区19)に埋葬された[1]。