成仏寺 (横浜市)
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永仁年間、心地覚心(法灯円明国師)が開基して深厚山と称し、真言宗・仏心宗(禅宗)・律宗・浄土宗の四宗を兼ねた(四宗兼学)が、応永年間、後小松天皇が師岡の熊野権現(師岡熊野神社、横浜市港北区)を勅願所に定め、師岡保内12ヶ郷神領寄進の宣旨を下したことから同地域の寺院12ヶ寺を社務に定めたとき、当寺をその随一に置き後小松院の院号を賜ったという。
天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉が門前に「保内12郷の禁制(きんぜい)」を出した。また、慶長年間には徳川家康から10石の朱印地と3町歩の境内地の寄進を受けた。元和9年(1623年)、徳川家光の命により四宗兼学から浄土宗のみに改め、知恩院の直末となった。なお、浄土宗改宗の初祖は本譽呑無(万行)上人である。
寛永7年(1630年)に徳川家光の上洛の際の宿泊所「神奈川御殿」が境内に造営されたため、代替地として与えられた現在地に移転、塔頭6坊を持つ[注釈 1]大寺となり栄えた。その後、本堂は享保2年(1717年)に闡譽霊察(せんよれいさつ)によって再建された。塔頭は宝永4年(1707年)までに4坊が、明治元年(1868年)には神奈川大火により残る2坊が廃絶。境内の鎮守熊野神社は同年の神仏判然令により分離した。
当寺の現在地にあった神奈川宿は日米和親条約締結の舞台であり、下田開港のさいに本堂が外国人宣教師の宿舎となった。当時滞在した著名人に、ヘボン式ローマ字の創始者ジェームス・カーティス・ヘボン (James Curtis Hepburn) 博士および、宣教師のブラウンやバラー、のちに日本滞在記を遺したフランシス・ホールなどがいる[2]。ここで日本語塾が開かれ、アーネスト・サトウもここで学んでいる[3]。
神奈川大火以降も関東大震災や横浜大空襲の被害を受け、昭和37年(1962年)現堂宇を、昭和43年(1968年)庫裏を再建した。