ジュ・ム・スヴィアン
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このモットーに託された思いが何であるのか、タシェは何ら説明をしていない。しかしシメオン・ルサージュに宛てた手紙の中で、議事堂のファサードに配した彫像の意図について述べ、それが人々に何を記憶するよう促すものであるかを説明している[2][3]。

- ケベック植民地の創設者
- ジャック・カルティエ
- サミュエル・ド・シャンプラン
- ポール・ショメディ・ド・メゾヌーヴ
- 聖職者
- フランソワ・ド・ラヴァル
- ジャン・ド・ブレブフ
- ジャック・マルケット
- ジャン=ジャック・オリエ
- 軍人
- ルイ・ド・ブアド・ド・フロンテナック
- ジェームズ・ウルフ
- ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルム
- レビ伯フランソワ・ド・ガストン
- 先住民
- フランス人統治者
- ピエール・ド・ヴォワイエ・ダルジャンソン
- アレクサンドル・ド・プルヴィル
- ルイ=エクトール・ド・キャリエール
- シャルル・ド・モンマニ
- ルイ・ダイユブ・ド・クーロンジュ
- ヴォードルイユ=カヴァニャル侯ピエール・フランソワ・ド・リゴー
- イギリス領になってからの総督(タシェが「最も自分達の国民性を理解していた」とする者[2])
- ジェームズ・マレイ
- 初代ドーチェスター男爵ガイ・カールトン
- ジョージ・プレヴォスト
- チャールズ・バゴット
- 第8代エルギン伯爵ジェイムズ・ブルース(エルギン卿)
このエルギン伯は、責任内閣導入において、大きな役割を果たした人物とみなされ、特別な場所を与えられている。タシェは、将来にも像を作ることを想定して、何カ所かを空けておいた。
一方でタシェの同時代人にとっては、このモットーの解釈は難しいものではなかった。最初期の解釈として参照できるものは、歴史家のトマ・シャペと公務員のエルネスト・ギャニョンによるものである[2]。

トマ・シャペは、1895年6月24日、レビ伯の像の除幕式でこういう演説を行っている。「…ケベック州には、州が誇りとし、好んで州内の記念碑や建築物に刻まれるモットーがある。このモットーはわずか3語である、ジュ・ム・スヴィアン、しかしこの簡潔な表現には、とうとうと語られる演説よりももっと価値があるのだ。そう、忘れてはならないのである。我々は過去とその教訓、過去とその不運、過去とその栄光を忘れてはならないのである[5]。翌1896年、エルネスト・ギャニョンはこう書いている。「このモットーには、連邦の中でも個性の強いケベック州、シャンプランとメゾヌーヴが作ったカナダの、その存在理由がまとめられている」[6]
1919年、タシェの死から7年が経ち、歴史家のピエール=ジョルジュ・ロイは、このモットーに表される特徴についてこう指摘した。「この3つの単語が雄弁に物語っているもの、それは過去と同様、現在も未来も、連邦の中で唯一のフランス人によるフランス語の州だということだ」[7]この文章は、その後何度かにわたって引用され、また別の言葉に言いかえられた[2]。
大勢の学者たちが、このモットーの論拠を見つけようとしていた。民俗学者のコンラッド・ラフォルトは、『Un Canadien errant(迷えるフランス系カナダ人)』の一節「Va, dis à mes amis/ Que je me souviens d’eux(さあ語れわが友よ、彼らのことは忘れないと)」が由来ではないかと考えた[8]。あるいはヴィクトル・ユーゴーの詩『Lueur au couchant(夕陽の光)』 でないかとも考えた[9]。作家のアンドレ・デュバルは、答えはもっと簡単で、すぐ身近にあると考えた。州政府の建物の、ドアの上にローヌ侯爵の紋章が刻んであり、そのモットーが「Ne obliviscaris」(忘れるなかれ)とあるのだ。ゆえに、デュバルはこう信じた。「ケベック州のモットーは、同時にローヌ侯のモットーをも表現しており、フランス系カナダ人の、ヴィクトリア女王への回答でもある」[10]
1978年以前に出版された英語の研究書でも、モットーの起源に関してはそう変わらなかった。このモットーと、それをどう解釈するかで、多くの言葉が費やされた[2]。「タシェ氏は、ケベック州の紋章にもある、美しく詩的で、そして愛国的なモットー、ジュ・ム・スヴィアンの発案者である。このモットーの意味するところを、たやすく英語で表現することはできないが、意味を伝えるために置き換えることはできる、我々は忘れない、忘れないであろう、我々のいにしえの血筋を、伝統を、記憶を」[11]
1955年、歴史家のメーソン・ウェードは、自らの意見をこう書き述べた。「フランス系カナダ人がジュ・ム・スヴィアンという時、ただ単にヌーヴェル・フランス植民地の時代を忘れないというのではない。自分たちはイギリスに征服された民族である事実をもまた示唆しているのだ」[12]


