高名な船主だったジョン・ジョゼフ・ラストン(1786年生)と妻アン・スミス(1788年生)の間の4人の息子の1人として、ロンドンのポプラー(英語版)地区で誕生。
造船技術と機械工学を学んだ後、ボールトン・アンド・ワットの従業員としてオーストリアに派遣され、ウィーン北郊フローリッツドルフ(ドイツ語版)地区のレオポルダウ(ドイツ語版)区域のドナウ川を航行していたジョン・アンドリューズ(John Andrews)の汽船会社で幹部の地位を得る。アンドリューズは1829年に同社初の蒸気船「フランツ1世(Franz I.)」号を開発しており、1832年ラストンを事業パートナーとして第一ドナウ汽船運航商会(ドイツ語版)を設立した。しかし5年後の1837年に開通したオーストリア北部鉄道の登場により、アンドリューズとラストンのウィーンでの汽船事業は廃業に追い込まれた。
しかしラストンはアンドリューズと共にオーストリアに留まり、ザルツカンマーグートのトラウン湖で汽船「ゾフィー(ドイツ語版)」号を運行させ、1840年にはプラハのモルダウ川で運行する汽船「ボヘミア(ドイツ語版)」号を設計した。1847年アンドリューズが死ぬと、翌1848年その未亡人のエリザベス・ヘプバーン[1]と結婚するが、1849年には妻と死別する。しかしこの短期間の結婚を通じてアンドリューズ夫妻が経営していたトラウン湖汽船運航会社及びエルベ川での汽船事業を相続することができた。
ラストンは弟の1人ジョン・ジョゼフ・ラストン(1820年 - 1873年)をパートナーとして事業を展開した。1851年にアンドリューズ夫妻からの事業承継がオーストリア政府に認可されると同時に、トラウン湖での汽船事業の拡大を進めた。1850年プラハのカロリーネンタール(英語版)地区に造船会社ラストン・アンド・エヴァンズ(Ruston & Evans)を設立し、同社は1854年ラストン・アンド・コー(Ruston & Co.)と改称した。ラストンは1869年までに同社の業態の拡大・変更を実施し、同社はプラハ製作所(ドイツ語版)と改称した。
ラストン兄弟はまた、1854年から1859年にかけ、クロスターノイブルクで(同市とその対岸地区一帯を結んだと考えられる[2])汽船運航を行った。兄弟は1857年にウィーン・フローリッツドルフ地区でも「ブライトフェルト・アンド・エヴァンズ(Breitfeld & Evans)」の社名で汽船運航を開始し、同社は弟ジョンが1873年に死ぬまで社長を務めた。ラストンとアンドリューズがかつて事業から撤退したフローリッツドルフ地区は開発が進んで多種多様な交通機関が競合していたが、内陸国の二重帝国では内陸水運の需要があり、またドナウ川経由で中東へ向かう汽船も利用者が多かった。1894年甥のジョゼフ・ジョン・ラストン2世(Joseph John Ruston II)が新たな事業パートナーとなり、翌1895年にラストンが亡くなると伯父の事業を引き継いだ。
ウィーン・フローリッツドルフ地区イェートレゼー(ドイツ語版)区域にはラストンの名を冠した横町ジョゼフ・ラストン・ガッセ(Josef-Ruston-Gasse)がある。
ラストンは最初の妻と死別後、バルバラ・ヴィクトリア・ベルハ(Barbara Victoria Belha)と再婚し、間に2男2女をもうけた。次女はシュライニッツ男爵家(ドイツ語版)に嫁いだ。次男ヴィクター・ジョン・ジョージ・ラストン(1864年 - 1940年)の息子ジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ヘプバーン=ラストン(1889年 - 1980年)は、2番目の妻でオランダ貴族のエラ・ファン・ヘームストラ女男爵との間にハリウッド女優オードリー・ヘプバーンをもうけた。