エラ・ファン・ヘームストラ
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15世紀末から続くオランダの貴族家門ファン・ヘームストラ家の末裔。法曹・政治家・植民地官僚であったアールノート・ファン・ヘームストラ男爵と、エルブリフ・ファン・アスベック女男爵(1873年 - 1939年)の間の第3子・三女。母は1814年オランダ憲法の起草者であるギースベルト・カレル・ファン・ホーヘンドルプ伯爵の曾孫である[1]。
父方祖父ウィレム・ファン・ヘームストラ男爵(1841年 - 1909年)が1902年にユトレヒト州の小城館ハイス・ドールンを購入したため、幼少期を家族と一緒に同館で過ごしたが[2]、祖母は1919年ドイツの亡命皇帝ヴィルヘルム2世に請われて館を売却した。
1919年にヨンクヘールの称号を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルト(1894年 - 1955年)と結婚し、夫の勤務先のあるオランダ領東インドで生活するが、2人の息子をもうけた後、1925年に離婚。翌1926年9月24日にジャワ島バタヴィアで、イギリス国籍の貿易商ジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)と再婚[注釈 1]、新しい夫と息子たちとともに欧州に帰国する。1929年ブリュッセルで娘オードリー・キャスリーン(後の女優オードリー・ヘプバーン)を出産。
1930年頃からヘプバーン=ラストン夫妻はファシズムに傾倒し、エラはアドルフ・ヒトラーを始めとする複数のファシスト指導者を賛美する記事を執筆・発表した[3]。ジョゼフ・ラストンはイギリスファシスト連合の活動にのめり込み、英国に帰って家庭を省みなくなったため、夫妻は1939年6月24日に離婚した。
ファシズム支持から離れた後、同じく反ナチに転向した英国人ジャーナリストのミッキー・バーンと短期間交際し、第二次世界大戦中のサン=ナゼール強襲作戦で枢軸国の捕虜となってドイツ東部の捕虜収容所オフラークIV-C(コルディーツ城)に入ったバーンと文通し、彼を励ました[4]。
娘のヘプバーンが主演したミュージカル映画『パリの恋人』(1957年)に端役で出演。同作の脚本家レナード・ガーシュと意気投合し、1960年年代前半はガーシュと米国西海岸ロサンゼルスで共同生活を送った。監督ジョージ・キューカー、プロデューサーエドウィン・H・ノッフ、グレゴリー・ペックの2番目の妻ヴェロニク・ペックらと親しく交際した。1960年代後半にはサンフランシスコに転居し、ベトナム戦争従軍兵の社会復帰をサポートする活動に関わった。この功績から、1971年に英国王室より聖ヨハネ勲章を騎士章(デイム)を授与されている[5][6]。
晩年は娘ヘプバーンとそのオランダ人のパートナーロバート・ウォルダースに引き取られ、彼らの暮らすスイス西部ヴォー州トロシュナの邸宅「ラ・ペジブル(La Paisible)」で死去した[7]。遺骸は娘ヘプバーンによって故人の旧宅ハイス・ドールンに程近いドールン旧墓地に埋葬された。

