ジョン・ハミルトン (初代アバコーン侯爵)

From Wikipedia, the free encyclopedia

初代アバコーン侯爵、1805年以降。

初代アバコーン侯爵ジョン・ジェイムズ・ハミルトン英語: John James Hamilton, 1st Marquess of Abercorn KG PC (Ire)1756年7月 – 1818年1月27日)は、イギリスの貴族、政治家。1783年から1789年まで庶民院議員を務めた[1]。政界で小ピット派の一員に属したほか、プライベートにおいても小ピットの友人だったが、政治家として小ピットに信用されず、アイルランド総督への就任を求めて失敗した[2]

ジョン・ハミルトン閣下英語版(1714年ごろ – 1755年12月18日、第7代アバコーン伯爵ジェイムズ・ハミルトンの次男)と妻ハリエット(Harriet、旧姓クラッグス(Craggs)、1769年2月1日没、ジェイムズ・クラッグスの庶出の娘)の息子として、父の死後の1756年7月にロンドンで生まれ、セント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア英語版で洗礼を受けた[3][4]。1767年[2]/1770年から1771年までハーロー校で教育を受けた後[1]、1773年7月30日にケンブリッジ大学ペンブルック・カレッジに入学、1776年にM.A.の学位を修得した[4]。同1773年にインナー・テンプルにも入学した[1]。ケンブリッジ大学では小ピットの同期であり[2]、ハミルトンは政界に進出した後小ピットを支持した[1]

1781年から1783年までグランドツアーに出て、大陸ヨーロッパを旅した後、1783年夏の終わりに帰国した[1][2]。1783年12月1日、イースト・ルー選挙区英語版の補欠選挙で庶民院議員に当選した[5]。12月5日にチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案に反対票を投じた後、8日の初演説で同法案を批判するなど、小ピット派の一員として行動した[1]1784年イギリス総選挙セント・ジャーマンズ選挙区英語版に鞍替えして再選した[6]。再選以降は小ピットの選挙改革案を支持、ウォーレン・ヘースティングズの弾劾裁判英語版においてウォーレン・ヘースティングズを支持、1788年には奴隷貿易の規制法案を奴隷貿易を存続させるものと批判した[1]

1789年10月9日に伯父ジェイムズが死去すると、アバコーン伯爵位を継承した[7]。同時にスコットランド、イングランド、アイルランドにおける領地を継承、うちアイルランドでの領地は主にティロン県ドニゴール県にあり、約36,000エーカーで年収2万ポンド以上相当とされた[2]。その後、小ピットの支持を受けて[2]1790年10月15日にグレートブリテン貴族であるアバコーン侯爵に叙された[7][8]

アイルランド政界では1790年7月19日にアイルランド貴族院議員に就任したほか[3]ストラバーン選挙区英語版への影響力を回復して、ノースランド子爵家のトマス・ノックス閣下ジョージ・ノックス閣下英語版とともにアイルランド庶民院への影響力を増大させた[2]。アバコーン侯爵自身もジョージ・ノックスの影響を受けてカトリック解放を支持するようになり、さらにアイルランド総督への就任も目指したが、小ピットから低評価を下されたため実現せず[2]、1794年2月1日にアイルランド枢密院英語版の枢密顧問官に任命されるにとどまった[7]。『アイルランド人名事典』は親カトリックの総督である第4代フィッツウィリアム伯爵ウィリアム・ウェントワース=フィッツウィリアム英語版の統治が災難的だったと評し、同じく親カトリックのアバコーン侯爵が就任したところで同じ結果になっていただろうと評した[2]。またティロン県の民兵隊隊長を務めていたが、1798年に辞任した[2]

アバコーン侯爵は1800年合同法を支持、合同以降は1801年から1804年までのアディントン内閣も支持した[2]。さらに小ピットが首相に復帰した後の1805年1月17日にガーター勲章を授与された[7]。小ピットは1794年に一度アバコーン侯爵へのガーター勲章授与を拒否しており、『アイルランド人名事典』はこの授与をもって2人が和解したと評した[2]

晩年に子女のうち1人を除き全員に先立たれるという不幸に見舞われた[2]。1818年1月27日にベントリー・プライアリー英語版で死去、2月5日にスタンモア英語版で埋葬された[7]。長男ジェイムズに先立たれたため、孫ジェイムズが爵位を継承した[7]

評価

アイルランド人名事典』が評価したところでは、アバコーン侯爵が上流社会の人物として、演説力、財力、選挙への影響力があり、アイルランドとグレートブリテンの両方にコネを有したが、自身の野心と政治での現実が一致せず、またプライベートでは親しい友人の小ピットも政治においてはアバコーン侯爵を信用しなかったことで、侯爵は政界で多くを果たせなかった[2]

政治以外では建築家のパトロンになり、サー・ジョン・ソーンを招聘してティロン県バロンズコート英語版の改築を進めた[2]

家族

出典

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI