ジョン・フィールド

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ジョン・フィールド(John Field)は、19世紀の初めに活動したアイルランド作曲家ピアノ奏者で、「夜想曲」(Nocturne)の創始者としても知られる。「夜想曲」を一つの音楽ジャンルとして確立させ、フレデリック・ショパンらに影響を与えた。また、モスクワサンクトペテルブルクに長く滞在して作曲・演奏活動を行い、後に『近代ロシア音楽の父』と呼ばれることになるミハイル・グリンカを指導するなど、ロシア音楽の発展にも大きく寄与した。

1782年7月26日[1]アイルランド王国ダブリンで生まれた。ヴァイオリン奏者の父にピアノの手解きを受け、教会のオルガン奏者であった祖父から音楽の基礎を学んだ[2]。9歳の時にピアノ奏者としての活動を始め、 1792年から トンマーゾ・ジョルダーニ(Tommaso Giordani、1730 - 1806)の指導を受けた。

1793年、家族と共にロンドンに移住。作曲家でピアノの製造も手掛けていた ムツィオ・クレメンティのもとで学んだ。17歳の頃には、ピアノ協奏曲の初演が行われていたといわれており、1801年ピアノソナタ集を出版。この頃から作曲家としての活動が盛んになった。

1802年7月に、クレメンティと共にヨーロッパを回り、パリウィーンなど各地で名声を博した。その後、クレメンティに連れられてロシアサンクトペテルブルクへ移る。1803年6月にクレメンティが去った後もこの地に留まり、ピアノの演奏家や指導者としての活動を続けた。1804年に自身初の交響曲を手がける。その後もロシア各地の貴族社会から熱烈に歓迎され、一時は「フィールドを知らないことは、罪悪である」とまで評されていたとされる。

1810年モスクワでの教え子の1人であったアデライデと結婚し、1819年に エイドリアン・フィールド を授かる。1815年にはフランス女性と不倫し男児 レオン・シャルパンティエ をもうけており、レオンは後にピアノ奏者となり、父と共に演奏旅行をしている。フィールドにとって、この頃が人生の絶頂期であり、この頃の教え子の1人に後に作曲家として知られる ミハイル・グリンカがいた。

1820年代半ばにアルコールに溺れ身体を壊し、

直腸癌も患い手術も行った。1831年に癌の治療も兼ねてロンドンを訪れ、1832年から翌年にかけてはパリで過ごした。その後、ベルギースイスイタリアへと演奏旅行を続けるが、体調不良から往時の面影は失せ生活も窮乏。ロシアの貴族レイマノフ家の助力でモスクワに戻り1837年に亡くなった。

彼の書いた、それまでの形式にとらわれない単一楽章のピアノ作品、夜想曲(ノクターン)は、ショパンに大きな影響を与え、後のメンデルスゾーンシューマンリストグリーグなどロマン派作曲家の作品の先駆けとなった。また1808年、26歳の時にモスクワで出版したピアノ連弾曲イ短調は、ロシアの民謡を取り入れたものであり、当時としては珍しいものであった。

フィールドのピアノ演奏は、当時一般的だった技巧的奏法とは一線を画していた。フィールドの弟子で生涯彼に忠誠を尽くしたアレクサンドル・デュブークは、次のように語っている。「私はもちろん彼の作品の幾つかが大好きだが、それ以上に彼の演奏の美しさは最高である。鍵盤のタッチのしかた、旋律の歌い方、緩やかで絶妙な『漂う』スケールとパッセージ、解釈の高貴さ…」[3]

主な作品

脚注

外部リンク

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