ジョージ・アップトン (第3代テンプルトン子爵)

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バニティ・フェア』1888年8月18日号におけるカリカチュアカルロ・ペレグリーニ画。

第3代テンプルトン子爵ジョージ・フレデリック・アップトンGeorge Frederick Upton, 3rd Viscount Templetown GCB1802年8月8日1890年1月4日)は、イギリス陸軍の軍人、アイルランド貴族。軍人としてはクリミア戦争アルマの戦い英語版インケルマンの戦い英語版に参戦した経歴を持ち、最終階級は陸軍大将である[1]。政治家としては保守党に属し、庶民院議員とアイルランド貴族代表議員を務めた[1]

生い立ち

初代テンプルトン子爵ジョン・アップトンと妻メアリー(1774年2月27日 – 1824年10月4日、第5代サンドウィッチ伯爵ジョン・モンタギューの娘)の次男として、1802年8月5日にサリーチャーツィー英語版ボットリーズ・マンション英語版で生まれた[1]。1814年ごろから1819年までイートン・カレッジで教育を受けた後[1]、1822年4月22日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した[2]

軍歴

1823年4月24日に第43歩兵連隊英語版エンサイン英語版(歩兵少尉)への辞令を購入して入隊した[3]。1825年10月29日に所属連隊なしの中尉への辞令を購入して昇進[4]、11月24日に第34歩兵連隊英語版に配属された[5]。1826年12月12日に所属連隊なしの大尉への辞令を購入して昇進[6]、1827年2月13日に第60歩兵連隊英語版に配属された[7]。1830年6月8日に第62歩兵連隊英語版に転じ[8]、1837年6月16日に少佐への辞令を購入して昇進[9]、1841年4月16日に中佐への辞令を購入して昇進した[10]。1842年1月7日にコールドストリームガーズの連隊大尉および陸軍中佐に転じた[11]。1851年11月11日、大佐への名誉昇進辞令英語版を得た[12]

1854年から1855年にかけてコールドストリームガーズ第1大隊を指揮して、クリミア戦争アルマの戦い英語版(1854年9月)、インケルマンの戦い英語版(1854年11月)に参戦して、インケルマンで負傷した[1]。1854年6月20日に連隊中佐に昇進[13]、1855年7月5日にバス勲章コンパニオンを授与された[14]。このほか、1856年8月にフランス第二帝政よりレジオンドヌール勲章オフィシエを[15]、1858年3月にオスマン帝国より3等メディジディー勲章英語版を授与された[16]。1858年10月26日、少将に昇進した[17]。1861年12月4日、ウェストモーランド・ライフル・ボランティアーズ(Westmorland Rifle Volunteers)第1大隊の名誉隊長に任命された[18]。1865年3月9日、中将に昇進した[19]。同年から1869年まで西部軍管区英語版司令官を、1869年から1874年まで南部軍管区英語版司令官を務めた[1]。1869年6月2日、バス勲章ナイト・コマンダーを授与された[20]。1873年4月6日、大将に昇進した[21]。1876年から1890年までライフ・ガーズ第2連隊英語版隊長を務めた[1]。1886年5月29日、バス勲章ナイト・グランド・クロスを授与された[22]。1886年10月30日、ロイヤル・アイリッシュ・ライフルズ英語版第4大隊の名誉隊長に任命された[23]

政歴

1859年イギリス総選挙保守党候補としてアントリム県選挙区英語版から出馬して、無投票で庶民院議員に当選した[24]。1863年3月28日に兄ヘンリー・モンタギューが死去すると、テンプルトン子爵位を継承した[1]。1863年5月11日、アントリム県副統監に任命された[25]。1866年9月14日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1890年に死去するまで務めた[26]

1883年時点でモナハン県に12,845エーカーアントリム県に11,924エーカーの領地を所有し、合計で年収19,217ポンドに相当した[1]

死去

1890年1月4日にイタリア王国サンレーモで死去、16日にキャッスル・アップトン英語版で埋葬された[1]。子女がおらず[27]、弟エドワード・ジョンの息子ヘンリーが爵位を継承した[1]

家族

出典

外部リンク

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