ジョージ・ニュージェント (初代ウェストミーズ侯爵)
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第7代ウェストミーズ伯爵ジョージ・フレデリック・ニュージェントと1人目の妻マリアン(Maryanne、旧姓ジェフリーズ(Jeffreyes)、ジェームズ・セント・ジョン・ジェフリーズとアラベラ・ジェフリーズの娘)の息子として、1785年7月17日にウェストミーズ県クロニン(Clonyn)で生まれた[1][2]。1796年よりイートン・カレッジで教育を受けた後、1797年にラグビー校に転じた[2]。
1800年3月11日、コールドストリームガーズのエンサイン(歩兵少尉)に任命された[3]。サー・ラルフ・アバークロンビーの部下としてエジプト遠征に参戦した後、1803年9月に中尉および大尉(lieutenant and captain)に昇進[4][5]、1805年7月9日に第88歩兵連隊の大尉に昇進した[6]。同年12月ごろに第36歩兵連隊に転じて半給になり[7]、1808年8月2日に第3歩兵連隊の大尉として復帰した[8]。1810年8月に半給に転じた[9]。
1806年1月8日、初代ネルソン子爵ホレイショ・ネルソンの葬儀に出席した[10]。
1814年12月30日に父が死去すると、ウェストミーズ伯爵位を継承した[2]。
1822年1月12日、アイルランド貴族であるウェストミーズ侯爵に叙された[2][11]。
1831年にアイルランド貴族代表議員に選出され、1871年に死去するまで務めた[2]。1831年10月7日にウェストミーズ統監に任命され、1871年4月3日までに辞任した[12]。ほかにもウェストミーズ民兵隊隊長を務め、1850年8月に辞任した[13]。貴族院では第1回選挙法改正の第2次法案(1831年10月)に賛成票を投じたが[14]、選挙法改正以外では保守党寄りであり、1869年アイルランド教会法(アイルランド国教会の廃止法)などの親カトリック政策に常に強く反対した[4]。
1871年5月5日に死去、ウェストミーズ侯爵位は廃絶、ウェストミーズ伯爵位は遠戚のアンソニー・フランシス・ニュージェントが継承した[2]
