ジョージ・ニュージェント (第7代ウェストミーズ伯爵)
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第6代ウェストミーズ伯爵トマス・ニュージェントと2人目の妻キャサリン(1772年8月7日没、ヘンリー・ホワイトの娘)の次男(長男トマスは早世)として、1760年11月18日に生まれた[1]。
1780年から1792年までフォア選挙区の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた[1]。フォアは父の懐中選挙区だった[2]。議会では最初野党に属したが、1782年から1783年にかけてアイルランド総督の第3代ポートランド公爵と第3代テンプル伯爵による統治を支持した結果、1783年3月に聖パトリック騎士団秘書官に任命された[2]。ただし、後年の貴族院での活動と比べて庶民院ではさほど精力的に活動したわけではなかった[2]。1789年、ロイヤル・アイリッシュ・アカデミー会員に選出された[2]。
1792年9月7日に父が死去するとウェストミーズ伯爵位を継承した[1]。1793年1月29日にアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[1]。
1794年ごろ、妻マリアンと友人でアイルランド庶民院議員のオーガスタス・キャヴェンディッシュ=ブラッドショー閣下(1768年 – 1832年)の間で不倫関係が始まった[2]。伯爵は姦通罪で妻を訴え、1796年2月20日の判決で10,000ポンドの損害賠償を勝ち得た[2]。その後、伯爵夫婦の婚姻が同年10月の議会立法に基づき解消され、マリアンは11月にキャヴェンディッシュ=ブラッドショーと再婚、伯爵は1797年2月に再婚した[1]。伯爵はこの出来事と同時期にユナイテッド・アイリッシュメン協会の弾圧に参加、1796年9月のサミュエル・ニールソンとトマス・ラッセルの逮捕に関与した[2]。また協会員ウィリアム・サンプソンの妻の寝室を捜索することを要求して、サンプソンが「彼女はほかの女性と違って、ひそかに男性を宿す習慣がない」と伯爵への皮肉をもって返答したというエピソードもあった[2]。
離婚の結果、家計が苦しくなり、1798年にフォア選挙区への影響力を第2代ダウンシャー侯爵アーサー・ヒルに売却した[2]。1800年8月2日にアイルランド貴族代表議員に選出され、1801年の連合王国議会設立とともに議員に就任、1814年に死去するまで務めた[3]。
1814年12月30日にダブリンのラトランド・スクエアで死去、息子ジョージ・トマス・ジョンが爵位を継承した[1]。