イヴァン・ジン・ラベール
アメリカ合衆国の総合格闘家
From Wikipedia, the free encyclopedia
経歴・人物
カリフォルニア州ロサンゼルス出身。母はロサンゼルス地区のプロレスリング・プロモーターとして権勢を誇っていたアイリーン・イートンで[9]、幼少時からその母の影響で格闘技に取り組んでいたという。ラベールは日本の柔道にも興味を持ち、講道館で柔道を学ぶべく来日したこともあったという[3]。また、極真武道会の十段を保持していた[10]。経験豊富なボクサーでもあった[8]。プロレスとプロボクシングの両方のレフェリー・ライセンスも持つ[6]。
1954年と1955年、AAU全米大学柔道選手権重量級と無差別級で優勝[8]。1955年9月5日、全日本学生柔道連盟と毎日新聞社の招請により米国選抜柔道チームに南カリフォルニア・ハリウッド道場所属として来日。福岡、大阪、名古屋、札幌、東京で各地の選抜チームと国際親善日米柔道対抗試合を行った。当時、三段であった[1]。プロレス評論家の門茂男はこれが初来日だったとしている[5]。
日本から帰国した後のラベールはプロレスリングの世界へ入り、選手として地元ロサンゼルスを根拠にしていたワールド・レスリング・アソシエーション(WWA)やテキサス州アマリロのウエスタン・ステーツ・スポーツなどのリングで活躍し、NWAアメリカス・タッグ選手権[11]、NWAノース・アメリカン・ヘビー級選手権(アマリロ版[12])などのタイトルを獲得したこともある。
1963年には、プロボクシングの元ミドル級ランカーであるマイロ・サベージと3分5ラウンド、ジャケット着用での異種格闘技戦を実施。アメリカのテレビでボクサーとグラップラーの対決が生放送された初の例だと言われる。試合は第4Rでラベールが絞め技でサベージを落とし勝利した[13]。1964年4月、日本プロレスの第6回ワールドリーグ戦に出場[4]。1973年7月、新日本プロレスのサマー・ファイト・シリーズにレフェリーとして来日[14]。
プロレスリング以外には俳優・スタントマンとして数々の映画に出演した経歴があり、世界的ビッグムービースターたるジョン・ウェイン、エルヴィス・プレスリー、ジーン・ハックマンなどと共演したこともある[15]。これらの活動の中で、「柔道の技で絞め落とされる経験」を希望する人を絞め落とし、そのたびに記念のワッペンを与えていたが、総計では何千枚にも上ったという。サベージとの異種格闘技戦では対決前夜の地元テレビ番組で、絞め技の効果に疑問を示し「見せてほしい」と口走った司会者を瞬時に失神させて投げ捨てた後「職場放棄らしい。さあ、いまからジン・ラベール・ショーの始まりだ」とおどけた[13]。
また、1976年6月26日に東京の日本武道館で開催されたアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦におけるレフェリーを務めた[3][16]。この実績に敬意を示し、UFC創設者の一人であるアート・デイビーは1993年に開かれた第1回UFCのレフェリーにラベールを起用しようと提案したが、パートナーのブラジリアン柔術家ホリオン・グレイシーはABCドラマ『探偵ハート&ハート』にエキストラ出演した時、スタントマン役のラベールと「銃を持った相手を制する最高の技術はどれか」という論争で衝突したことがあり、この案に同意しなかった[17]。
1981年まで現役のプロレスラーとして活動し、同年8月29日にホームテリトリーだったロサンゼルスのグランド・オリンピック・オーディトリアムにてピーター・メイビア[注 1]を相手に引退試合を行った[18]。
1984年ロサンゼルスオリンピックでは柔道アメリカ代表コーチを務める[8]。
また、グランド・オリンピック・オーディトリアムのオーナーでWWAの大株主であった兄のマイク・ラベール[5]と共にWWAの後身団体であるNWAハリウッド・レスリングのプロモーターとしても活動、2011年には母のアイリーン、兄のマイクと共にNWA殿堂顕彰者の栄誉を授けられた[9]。