スカラムーシュ (俳優)
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※その生涯については詳しいことはわからない。
1608年11月9日、ナポリに生まれた。彼の父親は騎兵隊の隊長で、裁判官と揉め事を起こしたとか伝えられているが、本当かどうかわからない。若いころから演劇の才能を見せ、イタリアの演劇界において名前を知られるようになった。1639年にフランスに拠点を移し、こちらでも大人気となった。1648年のフロンドの乱の勃発に合わせて、一時的にフランスを去ったが、乱が収束すると1653年8月に再び自身の率いる「イタリア劇団」とともにフランスへ帰ってきた。プチ・ブルボン劇場をパリでの拠点としており、1658年からはパリに進出してきた新興劇団のモリエール劇団とこの劇場を共同で使用するようになり、モリエールらと親交を深めたという。1660年以降、イタリア劇団とともにパリに定着し、フランスにおいて絶大な人気を維持し続けた。1694年12月7日、パリにて死去[1]。サン・トゥシュタッシュ教会に埋葬された。
人物
- パリにおける庇護者は、宰相ジュール・マザランをはじめ、ルイ14世、その母アンヌ・ドートリッシュなど、錚々たる顔ぶれであった。とくに、2歳のルイ14世とのエピソードが伝えられている[2]:
(スカラムーシュが2歳になる王太子の部屋に伺候したとき、泣きわめく王太子を持て余すアンヌ・ドートリッシュに、幼児をなだめる許可を得て)スカラムーシュは、なんともおかしなしかめ面や顔つきを王太子にして見せたので、誰にもまねできないそのしぐさに王太子は泣き止んだだけでなく、笑い出してしまった。その挙句、こんなに滑稽な場面で、王妃様が大変お喜びになったせいか、王太子はスカラムーシュの手と衣服にお漏らしをしてしまわれた。おかげで王妃をはじめ、その部屋に居合わせた貴婦人も貴族も皆が大笑いしたのである。(中略)このころスカラムーシュは32、3歳だったが、宮廷に伺候するたびに王太子のもとへ参上するよう命令を受け、王太子をこよなく楽しませたので、王太子も大いに彼を気に入られ、その後イタリアから喜劇役者たちを呼ばれるときには必ずスカラムーシュに声がかかったのであった。
- その演技に関しては伝説的な逸話が数多く残る。当時の役者としては珍しく、しかもかなりの長生きであったが、日ごろの肉体鍛錬を欠かさなかったおかげで、齢80を超えてもなお舞台で相手役のほっぺたを蹴り飛ばすことができた。また、彼自身が率いていたイタリア劇団は、1670年代までは専らイタリア語で公演を行っていたので、当然イタリア語を解さないほとんどのフランス人に内容を理解させ、笑わせるには卓越した動きによる演技力が必要であった。スカラムーシュはその中でも最も優れた役者であって、口を開きもせずに15分間も観客を笑わせ続けたという[3]。

- モリエールは、毎日スカラムーシュのもとに通い詰めて、鏡を手に彼の演技を学び、模倣に努めたという。この記述はモリエールを攻撃する目的で、1670年に出版された冊子に見える記述である[4]:
鏡を手にこの偉大な人物と向き合って、道化の中の道化役者たるこの一番弟子が、繰り返しまた繰り返し、滑稽な身振り、ポーズ、百面相に何百回も挑戦していたのです。ある時は家庭内の心労を表そうと、顔に無数のしわを寄せてみたり、そのしわに青白い顔色を加えれば、哀れな亭主そのもののご面相。次に、この物悲しげな顔つきを誇張して、コキュの亭主ややきもち焼きを描いて見せました。
