フロンドの乱

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フロンドの乱

戦争17世紀フランスで起こった反乱
年月日1648年 - 1653年
場所フランス王国
結果:貴族勢力は打倒され、絶対王政の確立につながる
交戦勢力
中央政府 貴族、民衆
指導者・指揮官
ジュール・マザラン コンデ公

フロンドの乱(フロンドのらん、フランス語: Fronde, 1648年 - 1653年)は、17世紀フランスで起こった反乱。 高等法院と王侯貴族が中心となってマザランの王権強化政策に反抗して起きた。 発端は増税だが、三十年戦争による財政逼迫、地方の凶作があった。高等法院の先導による一期、コンデ親王を中心とする王侯貴族先導の二期に分かれる[1]。フランスにおける貴族の反乱としては最後のもので、貴族勢力は打倒され、絶対王政の確立につながった。フロンド(fronde)とは当時流行していた投石器を意味し、石が次々と飛ぶように反乱が連鎖したことに由来する。五年間フランスが無政府状態になった「フロンドの乱」は、十六世紀後半のユグノー戦争と一七八九年の大革命に次ぐフランス国史上の一大事件であった[2]

1643年5月、ルイ13世が崩御、わずか4才のルイ14世が即位した。ルイ13世は遺言として、今後の国政は摂政会議(メンバーは王太后アンヌ・ドートリッシュ、王弟オルレアン公、従兄弟コンデ公、主席大臣ジュール・マザラン、セギエら複数大臣)により行うよう言い残した[3]。しかし5月15日にアンヌ・ドートリッシュは高等法院で、ルイ13世の遺言の無効を宣言[4]。アンヌが摂政、ジュール・マザランが宰相の座に着く。マザランはリシュリューの政策を継承し、貴族層と対抗、三十年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆のいっそうの反発を買った[5]。また、アンヌ・ドートリッシュがスペイン人、マザランがイタリア人であったことも反乱の一因といわれている。その後、イギリスで起こった清教徒革命も影響を与えた。

1648年5月13日。高等法院がマザランの税制改革と管制改革に反対決議を発しマザランに撤回を求めた。マザランが行おうとした税制改革とはパリ住民へのタイユ税(土地税)の課税。管制改革は現職法官への数年の年俸廃止と官職売却による法官の増員だった。これによって高等法院の法官は既得権を著しく失うことになる[6]

1648年7月、憤慨した高等法院は「二十七箇条の宣言」を発した。内容は、高等法院の許可の無い増税の禁止、官職の乱発の廃止などである。8月26日、ノートルダム大聖堂での戦勝記念ミサの日に高等法院の中心人物であるブランメル、ブルーセル、シャルトンが逮捕された。この逮捕騒動で激昂した民衆が武装蜂起しパリ市内で国王軍と衝突。蜂起した民衆は40万人[7]と言われる。一晩にしてパリ中にバリケードが築かれた。ルイ14世と摂政アンヌの居城パレ・ロワイヤルは、ブルーセルの釈放を要求する武装市民に包囲された。27日の夜、民衆の一部が暴徒となり王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入。ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたとされている。28日、マザランがブルーセルの釈放に応じたため、蜂起した民衆は解散した。10月24日、三十年戦争にフランスが勝利しウェストファリア条約が締結され、戦勝国フランスは多大な利益を得た。翌日の25日にマザランは高等法院の要求を全面的に承認した[8]

しかし凱旋の英雄コンデ公を味方に着けたアンヌ・ドートリッシュとマザランは反撃を始める。1649年1月5日、アンヌとマザランはルイ14世や廷臣を伴いパリを脱出してサン・ジェルマン・アン・レーへ避難[9]。ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれている[10]。翌日1月6日、国王派に着いたコンデ公率いる国王軍がパリを包囲した。対してフロンド軍の指揮官は、コンティ公アルマン[注釈 1]ラ・ロシュフコー公ボーフォール公ロングヴィル公テュレンヌ元帥ら大貴族だった。1月12日、フロンド軍がバスティーユ要塞を占領。だがコンデ軍との戦闘の末にフロンド軍は敗走。3月4日、リュエイユでマザランとフロンド派の和議が始まり、3月11日に和睦が成立し、第一期フロンドの乱は終息した[11]

第二期の始まりは、衆望を集めたコンデ公がマザランと対立して1650年1月にコンデ公が逮捕されると、憤慨した一族がブルゴーニュノルマンディーなどで挙兵して国王軍が反乱鎮圧に出動。騒ぎが収まらないまま翌1651年2月にコンデ公は釈放、マザランはドイツへ亡命した[12]

コンデ公はパリで権勢を振るい、反乱軍に加わってからは大貴族も含めた反乱に拡大した。しかし、反乱側は諸階層の利害の対立から内部分裂による自滅の道を歩み、コンデ公は9月ボルドーへ退去、地方に反乱を呼びかけると同時にスペインの援軍とも合流、宮廷もパリからポワチエに移動してパリは反乱軍に制圧された。1652年1月に亡命先からマザランが帰国、続いてテュレンヌ元帥とも合流を果たし国王軍の指揮をテュレンヌに委ねた[13]

コンデ公は4月にスペイン軍と共にボルドーからパリを目指して北上し、テュレンヌと交戦しながらパリへ入城、7月にパリ郊外へ出てフォーブール・サン・タントワーヌの戦いフランス語版で国王軍と激突した。戦闘はパリからアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの迎撃で国王軍が怯んだ隙を付いてコンデ公がパリに撤退したため決着は着かなかったが、決定的な戦果を出せず反乱軍の期待に応えられないコンデ公は次第に孤立、8月にマザランが自主的に再度亡命したこともあってパリに国王帰還を望む雰囲気が出来上がっていった。

そして10月にコンデ公がパリから脱出、入れ替わるようにルイ14世らが帰還し、11月にテュレンヌの追撃でコンデ公はスペイン領ネーデルラントへ亡命、1653年2月にマザランがパリへ戻り7月にボルドーが国王軍に鎮圧され反乱は終息した。以後フランスは貴族勢力の打倒により絶対王政へ進むことになる[14]

年表

• 1648年初頭: マザラン枢機卿が三十年戦争遂行のための財政政策を実施。官職保有者の給与支払い停止(4年間)、官職の倍増(増税的措置)

• 1648年5月13日: パリ高等法院が「聖王ルイの間」に三つの最高法院代表を集める。「連合裁定(アレ・デュニオン)」を発し、アンヌ・ドートリッシュとマザラン枢機卿の税制改革・官制改革の撤回を要求。一期フロンドの乱(高等法院のフロンド)の開始

• 1648年7月: パリの市民にも課税が及ぶ。民衆が反発し、首都全体の不満が拡大。パリ高等法院が27箇条の宣言を発表する。無同意課税の禁止、タイユ税の減税、地方長官制度の廃止 など

• 1648年夏(7月以降): マザラン枢機卿が譲歩姿勢を示す。財務長官エムリーを更迭し、要求の大部分を受け入れる

• 1648年8月: 軍実上の英雄コンデ公(ルイ2世・ド・ブルボン)がランスで勝利をおさめる

• 1648年8月26日〜27日: ノートルダム大聖堂でのランス戦勝祝いの最中に、マザランが、高等法院指導者ノヴィオン・ブランメニル、シャルトン、ブルーセルを逮捕。民衆の味方であるブルーセル逮捕で、パリ市内にバリケードが260(ヴォルテールは1400)築かれ、大規模な民衆の武装蜂起と騒乱が発生。王宮(パレ・ロワイヤル)に武装した民衆が侵入し、少年王ルイ14世の寝室に入り込む

• 1648年8月28日: マザラン枢機卿が要求を受け入れ、ブルーセルたちを釈放。民衆が解散し、事態が一旦収束

• 1648年10月24日: ウェストファリア条約締結。三十年戦争が終結する

• 1648年末(11月頃): 終戦によって国王軍が国境地帯から帰還したことを受け、マザラン枢機卿が反撃準備。高等法院内部の分断工作を開始

• 1649年1月5日: アンヌ・ドートリッシュとマザラン枢機卿がルイ14世を連れてパリを脱出し、サン=ジェルマン=アン=レーへ避難

• 1649年1月6日: 王令により高等法院の移転命令が出る。コンデ公率いる国王軍がパリを包囲

• 1649年初頭: フロンド軍にコンティ公(アルマン・ド・ブルボン)が参加し、コンデ兄弟の対立構図が発生。レ大司教補(ジャン=フランソワ・ポール・ド・ゴンディ)がフロンド派の政治的中核として影響力を拡大

• 1649年1月11日: コンティ公(アルマン・ド・ブルボン)がパリに入城し、高等法院からフロンド軍防衛総司令官に任命される

• 1649年1月12日: フロンド軍がバスティーユ要塞を攻略・掌握

• 1649年2月9日: イギリスの清教徒革命によりチャールズ1世処刑の報がパリに届き、高等法院および大貴族らフロンド指導層が王政崩壊への危機感を強める

• 1649年2月15日: 高等法院がフロンド軍の兵力動員を決定し、約1万2千人を徴集

• 1649年3月4日: リュエイユで国王側とフロンド側の和平交渉開始

• 1649年3月11日: 「リュエイユの和約」成立。フロンド派への全面恩赦が決定し、王権とフロンド側が和平を結ぶ

• 1649年8月18日: 母后アンヌ・ドートリッシュ、マザラン枢機卿、ルイ14世がパリに帰還。第一期フロンドの乱が終結する[15][16][17]

• 1649年秋頃: コンデ公(ルイ2世・ド・ブルボン)と、マザラン枢機卿および母后アンヌ・ドートリッシュの対立が激化

• 1649年12月11日: ポンヌフでコンデ公暗殺未遂事件が発生。従者1名が死亡

• 1649年12月15日頃: レ枢機卿(ジャン=フランソワ・ポール・ド・ゴンディ)、ボーフォール公、高等法院参事官ブルーセルが逮捕される

• 1650年1月18日: コンデ公、コンティ公、ロングヴィル公が逮捕され、ヴァンセンヌに投獄。第二期フロンドの乱が開始される

• 1650年1月22日: レ枢機卿(ゴンディ)らが釈放される

• 1650年3月: ロングヴィル公爵夫人(アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ブルボン)がストゥネーでテュレンヌ元帥と合流し挙兵。スペインとの交渉を開始

• 1650年: ラ・ロシュフコー公がポワトゥー・アングーモワで挙兵。転戦ののちボルドーへ移動し、地方貴族の反乱勢力と合流する

• 1650年夏: フロンドの乱が地方都市へ拡大し、戦局は膠着状態に入る

• 1650年9月: 国王軍が攻勢に転じ、ボルドーを陥落させる

• 1650年10月: ボルドー高等法院と国王側が和平交渉開始。ラ・ロシュフコー公たちが赦免を受ける

• 1650年12月2日: コンデ公夫人が高等法院に嘆願書を提出し、コンデ公たちの釈放要求

• 1651年1月30日: 高等法院がコンデ公たちの釈放、マザランの追放、ガストン・ド・オルレアン公への権力委譲を決定

• 1651年2月4日: 高等法院が母后アンヌ・ドートリッシュに対しマザラン追放を正式要求

• 1651年2月6日(夜): マザランがパリを脱出し、サン=ジェルマン=アン=レーへ避難

• 1651年2月9日: パリの民衆が蜂起し、ルイ14世と母后アンヌ・ドートリッシュが実質的に軟禁状態になる

• 1651年2月10日: 母后アンヌ・ドートリッシュがコンデ公たちの釈放命令に署名

• 1651年2月16日: コンデ公・コンティ公・ロングヴィル公がパリに入城し、民衆が歓迎

• 1651年3月末頃: 三部会開催の約束。フロンド陣営内部で対立が始まる

• 1651年8月21日: パリ高等法院で乱闘事件。ラ・ロシュフコー公がレ枢機卿を殺害未遂

• 1651年9月7日: ルイ14世が成人宣言する

• 1652年1月末: マザランが帰国し、ポワチエに到着

• 1652年3月: コンデ公がアジャンを出発し、パリへ進軍

• 1652年4月11日: コンデ公がパリに入城

• 1652年7月2日: コンデ公軍とテュレンヌ元帥の国王軍がフォーブール・サン・タントワーヌで戦闘。モンパンシェ女公(アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン)がバスティーユ要塞から砲撃し、コンデ軍を救出

• 1652年7月4日: コンデ公派の暴徒がパリで暴行。市庁舎に放火し高等法院議員を殺害する。コンデ公が民衆支持を喪失

• 1652年9月24日: パリのブルジョワ層市民が秩序の回復を要求。事態を見たブルーセル参事官が辞任

• 1652年10月13日: コンデ公がパリを脱出しフランドルへ亡命

• 1652年10月21日: ルイ14世が歓呼の声に迎えられパリへ入城。王権回復

• 1652年10月22日: 大部分の反乱者に対して恩赦決定

• 1652年11月13日: コンデ公とコンティ公に大逆罪宣告が下る

• 1653年2月3日: マザランがパリに帰還し、宰相復帰

• 1653年7月31日: ボルドーのコンデ軍が降伏。第二期フロンドの乱終結[18][19][20][21][22][23]

フィクションにおけるフロンドの乱

ダルタニャン物語」第二部「二十年後」では1648〜1649年の一期フロンドの乱が舞台となり、アトスアラミスがフロンド側、ダルタニャンポルトスがマザラン・母后アンヌ・ドートリッシュ側となり、一時は敵味方に分かれるが、四人でマザラン枢機卿を誘拐し、リュエイユ和約を締結させてフロンドの乱を終結させる[24]

注・出典

参考文献

関連作品

関連項目

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