スクラッパー・ブラックウェル

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原語名 Scrapper Blackwell
出生名 Francis Hillman Blackwell
スクラッパー・ブラックウェル
原語名 Scrapper Blackwell
出生名 Francis Hillman Blackwell
生誕
死没
ジャンル ブルース
職業 ミュージシャン
担当楽器
  • ギター
  • ボーカル
活動期間
  • 1928年 - 1936年
  • 1958年 - 1962年
レーベル
共同作業者

スクラッパー・ブラックウェルScrapper Blackwell1903年2月21日[1] - 1962年10月7日[2])は、アメリカ合衆国ブルースギタリスト歌手である。1920年代後半から1930年代前半にかけてリロイ・カーとギター/ピアノのデュオを組んで活動したことで知られる。

彼は、2024年にブルースの殿堂入りを果たしている[3]

ブラックウェルは1903年2月21日サウスカロライナ州ダーリントン郡非法人集落であるシラキューズに生まれた。彼は両親ペイトンとエリザベスの間の16人兄弟の一人で[4]チェロキー族の血が入っているとされる[5][6]。出生名は、フランシス・ヒルマン・ブラックウェルであった。

彼は人生の殆どの期間を3歳のときに移住したインディアナポリスで過ごした[4]。ニックネーム「スクラッパー(好戦的の意)」は彼の激しやすい性格から祖母が名付けたものである[7]。ブラックウェルの父親はフィドルを演奏したが、彼は独学でギターを習得した[4]。彼が手にした最初のギターは葉巻タバコの箱(シガーボックス)と木材、針金で自作したものであった。彼はまたピアノも習得し、時折人前でも演奏していた[4]

10代の頃になると、ブラックウェルはパートタイムのミュージシャンとして活動するようになり、シカゴまで演奏しに行くこともあったという[4]。彼は引っ込み思案な性格で一緒に仕事をしにくい相手として知られていたが、1920年代半ばにインディアナポリスで出会ったピアニストのリロイ・カーと信頼関係を築き、2人は生産的な仕事をするようになった[4]。カーは、1928年にヴォカリオン・レコードで一緒にレコーディングするようブラックウェルを説得し[8]、結果その年最大のブルースのヒット曲「How Long, How Long Blues」が生まれることとなった。

ブラックウェルはまたヴォカリオンへソロのレコーディングも行なった。その中には1928年の「Kokomo Blues」も含まれている。この曲はココモ・アーノルドによって「Old Kokomo Blues」としてレコーディングされ、その後ロバート・ジョンソンが改作し「Sweet Home Chicago」としてレコーディングしている。

ブラックウェルとカーは1928年から1935年にかけ、アメリカ中西部南部をブルース・サーキットのスターとしてツアーをして廻り、また100曲以上をレコーディングした。「Prison Bound Blues」(1928年)、「Mean Mistreater Mama」(1934年)、「Blues Before Sunrise」(1934年)などが人気曲として挙げられる[8]

ブラックウェルは何度かソロでの活動も行なっている。そのうちの一つ1931年のインディアナ州リッチモンドのジェネット・スタジオでのレコーディング・セッションは特筆に値する。ブラックウェルは、カーとの活動において自分の貢献に対する正当なクレジットを得ていないことに不満を抱いており、1931年のこのセッションを途中退席している。その後ヴォカリオンのメイヨー・ウィリアムズはそれを受けて状況を改善した。以後全てのレコーディングについて、ブラックウェルとカーは平等なソングライター・クレジットを与えられ、レコード契約においても平等な立場となった。

ブラックウェルのカーとの最後のレコーディングは1935年2月にブルーバード・レコードのために行なわれた。このセッションは、支払金を巡る争いに起因する険悪な雰囲気の中、セッションの途中で2人ともスタジオを去ったため、あと味の悪い終わり方となった。その2ヶ月後、ブラックウェルはカーが過度な飲酒と腎炎によって亡くなったことを電話にて知らされた。ブラックウェルは間もなく、7年間に渡るパートナーだったカーに捧げた曲「My Old Pal Blues」をレコーディングしている[4]。カーの死後、ブラックウェルはピアノ奏者のドット・ライスといくつかのレコーディングを行なっているが、ヒットには恵まれなかった。そのうちの1曲「No Good Woman Blues」ではブラックウェルがボーカルを取っている。その後、間もなくブラックウェルは音楽活動から引退した[8]

インディアナポリスのニュー・クラウン墓地のブラックウェルの墓標

ブラックウェルは1950年代後半に音楽活動を再開した[4]。1958年6月、コリン・C・ポムロイが彼をレコーディングしている。(この音源はコレクター・レーベルによって1967年にリリースとなった。)その直後、今度はダグ・ドベルの77レコードのためにダンカン・P・シードが彼をレコーディングした。ブラックウェルは自身のブルース演奏活動を続ける準備が整っていたが、1962年10月7日、インディアナポリスの路地で強盗に遭い、射殺されてしまった。59歳であった[4]

彼はインディアナポリスのニュー・クラウン墓地に埋葬された[9]。ボブ・ディランによる次のコメントに彼のミュージシャンとしての存在の大きさを見て取ることができる。「私たちの音楽の全てに、スクラッパー・ブラックウェルに直接繋がる強い流れがあります。彼は真に偉大なミュージシャンであったし、もっと多くを与えられて然るべき存在でした。」

ディスコグラフィー

脚注

外部リンク

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