ストックホルム症候群

犯罪被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築く現象 From Wikipedia, the free encyclopedia

ストックホルム症候群(ストックホルムしょうこうぐん、: Stockholm syndrome: Stockholmssyndromet)は、誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者についての臨床において、被害者が犯人との間に心理的なつながりを築くことをいう[1]。ただし臨床心理学における心理障害精神障害)ではなく、心的外傷後ストレス障害として扱われる。スウェーデン国外のメディアが事件発生都市名、ストックホルムに基づいて報道した経緯がある。

連邦捜査局の人質データベース・システム (HOBAS) や『FBI Law Enforcement Bulletin』報告書によれば、犯人と心理的なつながりを示す根拠がみられる人質事件の被害者は約8%にすぎない[2][3]

メディアや臨床心理学においては、被害者が犯人と心理的なつながりを築くことについて「好意的な感情を抱く心理状態」と判断して表現しているものが多い。さらに誘拐や監禁以外の被害者の反応についても表現されるようになり、ストックホルム症候群という用語の用法にも方言がある[4]

経緯

ノルマルム広場強盗事件の舞台となった旧クレジット銀行の建物。2005年撮影。

1973年8月、ストックホルムにおいて発生した銀行強盗人質立てこもり事件(ノルマルム広場強盗事件)において、人質クリスティン・エンマークは外部との交渉に際し警察や首相への反感を露わにした。また、解放後も警察に批判的な証言を行った。[5]

事件の経過

警察の不手際

警察は犯人の正確な身元を特定できず、赤の他人の弟を現場に送り込んでしまった。

そのため犯人はこの少年に向けて発砲、少年は危険を感じてすぐにその場から逃げ出したが、これにより人質たちは警察の能力を疑問視し始めた。

首相との対話

人質の一人であるクリスティン・エンマークは特に警察の対応に失望し、オロフ・パルメ首相に直接電話をかけた。

彼女は人質たちの命が危険にさらされていること、そして犯人たちの要求に応じることの重要性を懸命に訴えた。首相は理解を示しつつも、犯人たちを外に出すことのリスクを懸念した。

その対応に疑問を感じたクリスティンは、通話の最後に 「助けてくれてありがとう」と皮肉をぶつけた。

催涙ガス作戦強行

警察が催涙ガスを投げ入れるための準備として、天井に穴を開け始めた。

穴をあける音を耳にした犯人は計画を実行すれば人質を殺害すると警察を脅し、人質たちも計画を変えるように警察に訴えた。

しかし警察は催涙ガスの使用を決行。人質や犯人たちは床に倒れ嘔吐し、犯人は逮捕され、人質たちも無事に救出された。

当事者の反応

クリスティンは警察の強引な救出方法に疑問を持ち、これを公然と批判した。

警察側の反応

当時警察に従事していた精神医学アドバイザー、ニールス・ベジェロット (Nils Bejerot) が「ノルマルム広場症候群」を意味する Norrmalmstorgssyndromet と名付けた。それをスウェーデン国外のメディアは「ストックホルム症候群 (Stockholm syndrome)」と報道した[6]

最初期に、この問題を調査したアメリカ人のフランク・オックバーグ (Frank Ochberg) 博士は、FBIとイギリス警察の交渉担当者に、次のように報告していた。

人は、突然に事件に巻き込まれて人質となる。そして、死ぬかもしれないと覚悟する。犯人の許可が無ければ、飲食も、トイレも、会話もできない状態になる。犯人から食べ物をもらったり、トイレに行く許可をもらったりする。そして犯人の小さな親切に対して感謝の念が生じる。犯人に対して、好意的な印象をもつようになる。犯人も人質に対する見方を変える[7]

批判

「ストックホルム症候群」と呼ぶことで警察や社会の期待に添わない当事者の声を錯乱と切り捨て封殺しているのではないかと批判されている。[5]

当時人質だったクリスティン・エンマークは犯人との間に感情的な結びつきはないと主張し、事件から半世紀以上が経過した後も、当時の自分が何も悪いことはしていないと認識し、自らの行動に誇りを持っていると話した。[5]

アラン・ウェイド (2015)

2015年の尊厳会議で、アラン・ウェイド博士はクリスティン・エンマークへのインタビューの後、「ストックホルム症候群」の神話(および暴力被害を受けた女性の信用を失墜させるために考案されたその他の概念)を発表した。この発表で彼は、「ストックホルム症候群」や、「外傷的絆」、「学習性無力感」、「被虐待女性症候群」、「内面化された抑圧」、「攻撃者への同一化」などの関連概念は、実際の出来事から、被害者、特に女性の心の中にあるとでっち上げられた病理へと焦点をずらすと主張している。ほかの多くの概念と同様、「ストックホルム症候群」と呼ぶことで当事者の声を封殺し警察の不手際などに対する批判を抑え込むことができる。[8][9][10]

ジェス・ヒル(2019年)

オーストラリアのジャーナリスト、ジェス・ヒルは、 2019年に発表した家庭内暴力 に関する論文『See What You Made Me Do』の中で、この症候群を「診断基準のない疑わしい病理」と表現し、「女性蔑視に満ち、嘘に基づいている」と述べている。また、2008年の文献レビューでは「(ストックホルム症候群の)診断のほとんどは心理学者や精神科医ではなく、メディアによって行われている」ことが明らかになったと指摘している。特に、ヒルの分析では、ストックホルム当局が強盗事件への対応において、誘拐犯よりも警察が人質を危険にさらすような対応をとったことが明らかになった(人質のクリスティン・エンマークは、立てこもり事件中にスウェーデンのオロフ・パルメ首相と電話で話す機会を与えられ、パルメ首相から政府は犯罪者とは交渉しないと告げられたと報告しているなど。さらに、ベジェロはエンマークと一度も話したことがないにもかかわらず、彼女を診断したと指摘している。[11]


オーストリア少女監禁事件の被害者ナターシャ・カンプッシュ (Natascha_Kampusch) は、2010年の『ガーディアン』のインタビューで次のように述べている。

被害者に、ストックホルム症候群という病名をつけることには反対する。これは病気ではなく、特殊な状況に陥ったときの合理的な判断に由来する状態である。自分を誘拐した犯人の主張に自分を適合させるのは、むしろ当然である。共感を示し、コミュニケーションをとって犯罪行為に正当性を見い出そうとするのは病気ではなく、生き残るための当然の戦略である[7]

他の有名な事件

ある乗客は、「北帰行」を歌って犯人を激励した。また、別の乗客は飛行機を降りる時に「頑張って下さい」と言って犯人を激励した。乗客と犯人には、奇妙な連帯感があった[12]という。
犯行グループによって拉致された女性が、後にその犯行グループと共に銀行強盗の一味に加わっていたという事件。

リマ症候群

ストックホルム症候群と同様の状況下で、監禁者が被監禁者に対して同情的な態度をとるようになる現象が提示されており、「リマ症候群」と呼ばれている。監禁者が考えを改めたり、被害者に対して共感を覚えることもあるとされる。

リマ症候群は、1996年から1997年にかけてペルーリマにおいて発生した在ペルー日本大使公邸占拠事件にちなんで命名された。このとき武装した一団は、各国の駐ペルー特命全権大使、日本企業のペルー駐在員ら約600人を人質にした。しかし監禁者の一団は人質に同情し、数時間以内に200人以上の人質を解放した[13]

親密なパートナーからの暴力

学術的な証拠によれば、ストックホルム症候群を発症し、加害者を許し続けることは本人のメンタルヘルスに悪影響を及ぼし、その結果として家族など周囲の大切な人々に間接的な害を与えるリスクを伴う[14][15][16][17]

虐待関係の滞在とその精神的影響

親密なパートナーからの暴力によってストックホルム症候群が生じると、被害者が関係にとどまる理由には、関係への依存、許し、そして希望が含まれる。これらは被害者の決定を歪め、再被害化を招く。たとえば、関係依存と許しが虐待パートナーに戻る意図を高める研究では、許しが一時的な安心を与えるものの、毒性行動を容認し、精神的健康を悪化させる可能性が指摘されている。 このような滞在は、うつ病、不安、PTSDを増大させ、自己愛を低下させる。メタ分析では、親密パートナー暴力のループがうつ病と被害化を相互に強化し、子供の曝露が世代間伝播を引き起こすことが示されている。 被害者が虐待者を大切にし続ける場合、境界設定ができず、自己のニーズを無視し、結果として自分を愛する人々(例: 子供や家族)への感情的負担が増大する[14][15]

許しは精神的健康を促進するが、虐待コンテキストでは注意がのぞましい。メタ分析では、許し介入がうつ病(SMD = -0.37)、怒り・敵意(SMD = -0.49)、ストレス(SMD = -0.66)を減らし、正の感情を高める効果が確認されている。 また、許しが怒りの減少と希望の増加を通じて不安、うつ、自尊心を間接的に改善する並行媒介分析もある。 しかし、親密パートナー暴力の許しに関するレビューでは、許しが権力不均衡を強化し、虐待の容認と等価視されるリスクが強調される。 特に、支配的な虐待者に対する許しは操作を助長し、被害者が関係に留まるサイクルを生む。許し教育介入のメタ分析でも、怒りを減らす効果(g = 0.54)はあるが、青年期の一般的な傷つきに限定され、虐待特化ではない。 許しを回復ツールとして用いる場合は間違っている可能性がある[18][19][20][21]

世代間影響と関係への波及

児童期虐待が成人期の育児行動に影響し、虐待・ネグレクトのリスクを高めることが一貫して示されている。 たとえば、親の虐待史が子供への物理的虐待、感情的引きこもり、過剰介入を引き起こし、親子関係を損なう。媒介要因として、成人期の親密パートナー暴力や精神的健康問題(うつ、解離)が挙げられ、これが文の「自分を愛する人を傷つけてしまう」を支持する。児童性的虐待の影響に関するレビューでは、男性の対人暴力への影響は混合的で、方法論的問題から明確なサイクルは確認されていない。 しかし、全体として、被害者が虐待者を大切にし続けることで自己のトラウマを未解決にし、子供やパートナーへの悪影響を伝播させるリスクが高い[16][17]

認知歪みと決定プロセス

親密パートナー暴力被害女性の認知歪み(自己非難、最小化、変化の希望)が関係滞在を促進し、自尊心低下と将来の関係障害を引き起こす。 これらの歪みは許しを容易にしてしまう。毒性関係のレビューでは、サイコパシー関連の虐待が被害者の自尊心を深刻に損ない、信頼喪失と社会的引きこもりにより将来の関係を妨げる[22][23]。以上のレビューは主に横断的・回顧的で、因果関係を確立しにくい。サンプルは女性中心で、文化的多様性に欠ける場合があるが、許しが有益なのは関係終了後で、継続時は有害である[14][15][16][17][18][19][20][21][22][23]

回復

症候を示す被害者は心的外傷後ストレス障害として扱われ、回復するために心理カウンセリングが行われる。ここで被害者は、自身の行為や感情が『人間のサバイバル術に由来すること』であり、『危機的状況における順応であること』を再認識するように促される。回復過程の期間は、サバイバル術由来の行動を減らすことを含めて、日常生活を取り戻すことに充てられる[24]

スペイン・バルセロナ自治大学の教授によると、加害者が元カレでも家族でも、一人ひとり状況が違うので注意が必要だという。親密な暴力によってストックホルム症候群が引き起こされると、歪んだ信頼関係によって被害者の反応や正常な判断力が損なわれると言う。教授によると、一般的な症状としては、圧倒的な罪悪感、恥ずかしさ、孤独感などがあり、被害者は「自分は傷つけられたが、相手は大切な存在だ」と感じているそうである。愛する人からの間接的、直接的な暴力に直面し、行動しなければならないという信じられないようなストレスに加え、被害者はさらに押しつぶされそうになるという。

そもそも、被害者はすでに加害者からの暴行から逃れられない状況にあり、トラウマから被害者からの十分な状況説明も期待できない。したがって、被害者を批判しないこと、すなわち5W1Hを詳しく聞かないことが重要であるが、もちろんこの場合、精神的なサポートは特に重要である。この症状は、特に未成年の場合に顕著である。被害者に、自分は生きている、加害者から離れなければいけないということを認識させることが重要である。

また、被害者は加害者をかばう傾向があり、自分の私生活を他人に知られたくないため、被害者の身近な他の重要人物は、被害者が加害者に翻弄されている状況に意外と気づいていないことが多い[25]

分析報告

精神障害の診断と統計マニュアル(DSM5、2013年)

本書は、心理障害の分類のための共通言語と標準的な基準を示すものである。ストックホルム症候群は、かつて一度も本書に記載されたことはない。多くの関係者が、心的外傷後ストレス障害に分類されると信じているからである。2013年に第5版が出版され、その日本語訳は2014年に出版されたが、ストックホルム症候群については記載されていない[26]

Namnyak=Tuftonらの調査(2008年)

研究グループは「ストックホルム症候群が多くメディアで報道されているものの、この現象について専門的な研究はあまりなされていないこと」を見つけた。あまり研究されてこなかったとは言うものの、ストックホルム症候群とは何かについて合意されているわけでもない。この用語は「誘拐」以外にも、あらゆる種類の虐待に使われるようになってきている。また「診断」するための症候について明確な定義も無いとしている[27]

FBI Law Enforcement Bulletin(1999年)

FBIの1999年の報告書は、誘拐被害者のうち8%のみがストックホルム症候群の兆候を示したに過ぎないとしている。ドラマチックな事例のセンセーショナルな性質は、人々をしてこの現象を例外的なものではなく法則と見なせしめている。ストックホルム症候群が起きるための3つのカギとなる要素が識別されている(1.時間の経過、2.条件つきの接触、3.直接かつ継続的な虐待を伴わない不親切)[3]

ロビンス=アンソニーの調査(1982年)

ストックホルム症候群と同様の症状(破壊的なカルト被害)を史学的に研究してきたロビンスとアンソニーは、彼らの1982年の調査において「1970年代には洗脳のリスクと潜在的に関連するような逮捕事例が豊富にあること」を見つけた。彼らは「洗脳がこの時期にメディアによって注目されていたことが、ストックホルム症候群を心理状態と見なすような解釈をもたらした」[28]と主張する。

ポップカルチャーにおける表現

ドラマ

映画

脚注

関連項目

外部リンク

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