Wikiwand AI

ストルイピンの6月クーデター

From Wikipedia, the free encyclopedia

ストルイピンの6月クーデター(ストルイピンの6がつクーデター)とは、1907年にロシア帝国において、ストルイピン内閣英語版皇帝ニコライ2世第2ドゥーマロシア語版に対して行ったクーデターである。これにより、政府は第2ドゥーマを解散し、数十名の議員を逮捕するとともに、ドゥーマ選挙に関する選挙法を改正した。

結果
概要 日時, 場所 ...
ストルイピンの6月クーデター
第一次ロシア革命内で発生
第2ドゥーマロシア語版の議員たちが、ピョートル・ストルイピンへの返答案を起草している様子を描いた風刺画
日時1907年7月3日 - 16日
場所ロシア帝国の旗 ロシア帝国
結果
参加集団
指導者
フョードル・ゴロヴィンロシア語版
閉じる
ニコライ2世による第1ドゥーマロシア語版および国家評議会の開会演説 (1906年)

このクーデターにより、この後のドゥーマの構成は政府寄りに巧みに変更された。従来の選挙法では農民やその他の下層階級が選挙人の多数を占めていたが、新しい選挙法は第1ドゥーマロシア語版・第2ドゥーマを支配していた自由主義・革新勢力の議員の選出を回避すべく、有産階級の支配力を高めるような内容となった。

多くの歴史家は、この出来事をもって第一次ロシア革命が終焉したとみなしている。

背景

第一次ロシア革命の最中、ニコライ2世政権はその専制体制を維持し、国家が完全な無政府状態に陥るのを防ぐべく、立憲主義の導入を余儀なくされた。ニコライ2世は1905年10月30日旧暦10月17日)に後に十月詔書と呼ばれる勅令を公布し、基本的市民権を保障するとともに、議会の承認なくして法律を制定しないことを約束した[1]。翌1906年5月6日にはロシア帝国国家基本法が公布され、両院制議会の下院として国家ドゥーマ、上院として国家評議会が設置された。こうしてドゥーマは、ロシアにおける初めて本格的な議会政治への試みとなった[2]

国家評議会は、一部を皇帝が任命し、一部を官庁・商業団体・聖職者団体などが選出する仕組みであったのに対し、ドゥーマは各階層の国民によって、複雑な間接選挙制度を通じて選出されることとなった[3]。当初の選挙制度は、保守的であると考えられていた農民に比較的多くの選挙人を割り当てるよう設計されていた。

革新勢力の多くは皇帝のこの譲歩を拒絶したものの、大多数のロシア国民は新たな制度に期待を寄せた。しかし、この新体制に対する国民の信頼は、1906年3月5日、新基本法公布に先立って発せられた新たな詔書によって大きく揺らぐこととなった。この詔書は、新設されるドゥーマの権限を著しく制限する内容であった。皇帝の絶対権力は5月6日の基本法公布まで正式には失われていなかったため、この措置の合法性をドゥーマが争うことはできなかった。さらに、報道・集会・言論の自由をはじめとする新たに約束された市民的自由も、同年に実施された反革命作戦の過程で大幅に制限された。

ニコライ2世は5月10日、冬宮殿において演説を行い、第1期国家ドゥーマを開会した。皇帝と閣僚たちはドゥーマを政権に従順な存在に留めたいと考えていたが、議員たちはこれに応じず、政権が到底受け入れられない急進的な法律案を次々と提出した。そのため、ニコライ2世は7月21日に第1ドゥーマを解散した。

しかし、第2ドゥーマ選挙ロシア語版では前回以上に急進派が躍進し、立法府と行政府の対立はなおも続いた。第2ドゥーマでは、議席のおよそ2割を社会主義勢力が占めた。その内訳は、ロシア社会民主労働党メンシェヴィキおよびボリシェヴィキ)、人民社会党ロシア語版社会革命党であり、いずれも第1ドゥーマ選挙ロシア語版ボイコットしていた勢力であった。新たなドゥーマとの協力関係も構築できなかった政府は、新たに首相に就任したピョートル・ストルイピンの下で、ドゥーマを解散する口実を探し始めた。

政府への支持

1907年5月までには、政府は第2ドゥーマを解散し、その選挙法を改正して新たなドゥーマを編成する計画を立案し始めていた[4][5]

政府は地方自治機関であるゼムストヴォの支持を得ていた[6]。多くのゼムストヴォはヴィボルグ・アピールの署名者を排除する決議を採択しており、中には1905年選挙法の改正を求めるものもあった[6]。また、多くのゼムストヴォでは左派勢力が後退し、右派勢力が台頭していた[7]。ストルイピンはゼムストヴォを、首都から離れた地方世論を測る指標であると同時に、選挙法改正後に誕生する新たな議員の供給源となり得る存在とみなしていた[8]

ゼムストヴォの構成員であることが多かった貴族たちも、政府を支持した[8]。貴族たちは革命派によるテロリズムを懸念するとともに、ドゥーマにおいて農民が強い影響力をもっていることを危惧していた[9]。一部の貴族は、ドゥーマの成立に対する貴族階級全体の対応があまりにも消極的であると考えていた[10]。1906年に開催された貴族連合ロシア語版第1回大会では、ドゥーマの存在についての声明すら採択されなかった[11]。しかし、政府が第1ドゥーマを解散すると、貴族連合はより強硬な反ドゥーマの立場を取ることに自信を持ち、選挙制度の変更も支持するようになった[11][12]

また、貴族たちはロシア国内の少数民族にも選挙権を認めた結果、ドゥーマ選挙が貴族を締め出すものになっていると批判した[13]。政府は貴族連合の支持を歓迎した一方で、その影響力には一定の警戒感も抱いていた[14][15]。第1ドゥーマ解散後、貴族連合は新たな選挙法について政府と合意し、それを地方の貴族やゼムストヴォの間で支持させたいと考えていた[16]。もっとも、ドゥーマ解散や選挙法改正の計画自体は貴族団体が主導したものではなく、政府自身の構想であった。ただし、貴族連合がこれらの政策への支持を公然と表明したことは、政府の自信を大いに高めることとなった[17]

政府はさらに、君主主義政党や極右政党[15]、そして黒百人組に属する諸団体からの支持を受けていた[18]。その中で最も成功を収めた組織が、ロシア人民同盟英語版である[19]。政府と極右勢力は、選挙権の制限など一部の政策目標を共有していた[20]。しかし、第2ドゥーマにおける極右勢力の議席は少なく、本来期待されたほど有力な同盟相手とはなり得なかった[20]。また、政府は彼らがテロリズムを用いることにも一定の距離を置いていた[21]

10月17日同盟(オクチャブリスト)のストルイピン政権に対する立場は当初明確ではなかったが、アレクサンドル・グチコフがストルイピンによる革命弾圧を支持したことで、同党はより親政府的な路線へと転じた[22]。グチコフは、オクチャブリストは左派と同様に立憲主義を支持する一方で革命的傾向を拒否し、また右派と同様にロシア愛国主義を共有しつつも無制限の専制政治には反対すると説明した[23]。さらにオクチャブリストは、自らが掲げていた土地改革案を撤回し、政府案を支持するまでになった[24]。この方針転換を受けてドミトリー・シポフロシア語版は離党し、平和的革新党ロシア語版を結成した[25]

このように、政府はゼムストヴォ、貴族連合、極右政党・団体、そしてオクチャブリストを支持基盤としていた[26][27]。この連合こそが、第2回国家ドゥーマの解散を実現する政治的同盟となった[27][28]

ドゥーマの解散

1907年6月14日、ストルイピンはドゥーマに対し非公開会議の開催を求め、自ら演説を行った[29]。ストルイピンは一通の文書を読み上げ、社会民主労働党が民主共和国の樹立を目指す陰謀を企てていると主張した[29]

しかし、告発された議員たちは会議前にその文書を閲覧することを許されておらず[29]、文書には事実関係の混同や不正確な記述、日付の誤りや欠落が含まれていた[29]。ロシア社会民主労働党がツァーリ体制の打倒と民主共和国の樹立を目標としていたこと自体は公然の事実であり、党もそれを隠してはいなかった[29]。しかし、この告発は、同党が直ちに政権転覆を実行しようとしていたことを証明するものではなく、またドゥーマ内の同党議員団がそのような計画に関与していたことを示す証拠も示されなかった[29]

それにもかかわらず、ストルイピンは告発対象となった議員、すなわち社会民主労働党所属のドゥーマ議員全員について、免責特権を停止するよう要求した[28][30]。これに対しドゥーマは要求を直ちに受け入れず、告発内容を独自に調査するための特別委員会を設置した[28][30]。特別委員会は6月15日を通して審議を続け、翌16日午前1時30分まで調査を行った[30]

しかし6月16日午前5時、ニコライ2世は勅令によって第2ドゥーマを強制的に解散した[30][31]。勅令では、9月1日に新たな選挙を実施し、11月1日に第3ドゥーマを招集すると定められた[32][33]。また、ドゥーマ議員らが政府および皇帝に対する陰謀を企てていたことが解散理由として掲げられた[34]

1906年国家基本法の下では、ドゥーマ議員はドゥーマ自身が免責特権の停止を承認し[30]、さらに裁判所の有罪判決を受けない限り、逮捕・拘禁されることはなかった[35]。それにもかかわらず、社会民主労働党所属議員の一部は、ドゥーマの承認も裁判もないまま拘束され、数ヶ月にわたって勾留された[36][37]

1907年選挙法

第2ドゥーマの解散直後、1907年選挙法ロシア語版が勅令によって公布・施行された[38][39][40][41]。新選挙法は内務次官補のセルゲイ・クリジャノフスキーロシア語版が3種類の草案を作成しており[28]、その草案は第2ドゥーマ解散よりかなり以前から準備されていた[28]。政府は、その中でも貴族連合がその第3回大会で提案した内容に最も近い案を採用した[42]

新選挙法の目的は、大ロシア人、地主階級、そして都市の富裕層に支配的な地位を与えることであった[38][43][44][45]。そのため、新法は各選挙人団に割り当てられる選挙人の比率を変更するとともに[46][47][45] 、都市部で直接選挙が実施される都市の数を、それまでの26都市から7都市へと削減し[48]、それ以外の地域では従来どおり間接選挙制度を維持した。もっとも、新法は一般国民を完全に選挙から排除することを目的としたものではなかった。しかし、その制度変更により、農民・労働者・非ロシア系民族のドゥーマに対する政治的影響力は、従来以上に大きく弱められることとなった[38][44][49][50]

この1907年選挙法によって、国家ドゥーマの定数は524議席から442議席へ削減された[49][51]。ストルイピン政権は、こうした制度改革によって政府の政策に協力的な「扱いやすい」ドゥーマを形成すると同時に、一定程度の代表制も維持できると期待していた[52]

オクチャブリストは声明の中で、この選挙法が憲法に反する手続で制定されたこと自体は認めながらも、それを「遺憾ではあるが必要な措置」と評価した[53][54]。また同党は、新たな選挙制度が次回総選挙において自党に有利に働くとも考えていた[55]

合法性とその後の影響

政府が講じた一連の措置の合法性には、大きな疑義があった[46][56]。1906年国家基本法によれば、ドゥーマの制度はドゥーマ自身の承認なしに変更されるべきではなかった[57][58][59]。しかし実際には、政府はドゥーマを強制的に解散したうえで、新たな選挙法を一方的に勅令によって制定した。このドゥーマの強制的な解散と新選挙法の一方的な制定は、一般にニコライ2世とストルイピン政権によるクーデターとみなされている[4][46][58][60]。また、社会民主労働党員に対する陰謀容疑も、このクーデターを正当化するための口実に過ぎなかったと評価されている[41]

政府が目指したのは、政権に敵対的でない、より保守的なドゥーマを形成することであり、この試みは成功を収めた[33][41][61] 。1907年10月に実施された第3ドゥーマ選挙ロシア語版では、親政府勢力が勝利し、301議席を獲得して最大勢力となった。その内訳は、オクチャブリストが154議席、その他の親政府諸政党が147議席であった[62]

6月クーデター後、ニコライ2世を支持する一部の勢力は、ドゥーマの権限をさらに縮小するか、あるいはドゥーマそのものを廃止するよう皇帝に求めた。しかし、ニコライ2世はこれを拒否した[27]

1907年選挙法は、財産所有者の政治的影響力を強化することで、ドゥーマをより保守的で政府に協力的な機関へと変えることを目的としていた。その結果、ロシア帝国の政治において地主貴族がほぼ独占的な政治的優位を占める体制が成立することとなった[63]

関連項目

脚注

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks