スピンクロスオーバー

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スピンクロスオーバー英語: Spin crossover)もしくはSCO遷移金属錯体の中心金属スピン状態が外部刺激に応答して相互変換する現象である[1]。スピンクロスオーバーを示す錯体をスピンクロスオーバー錯体もしくはSCO錯体と呼ぶ。スピンクロスオーバー錯体は通常、鉄イオンコバルトイオンの錯体である[1]

スピンクロスオーバーの例。3d5金属八面体型錯体の高スピン電子配置(左)と低スピン電子配置(右)を表している。

スピンクロスオーバーは1931年(昭和6年)にCambiとSzegöらによりFe(III)ジチオカルバメート錯体で初めて観測された[2]配位子場理論が確立されるとスピンクロスオーバーに対する理解が進み、また1990年代にはスピンクロスオーバーのメモリ、ディスプレイ、およびセンシングデバイスにおける将来的な可能性が予言され、以降活発に研究されている[2]

配位子場理論によれば、遷移金属は配位子の与える配位子場と相互作用し錯形成することで、d軌道分裂を引き起こす。このうち、3d遷移金属錯体についてはd電子数が4から7までのときに高スピン配置(HS)と低スピン配置(LS)の2つのスピン配置が存在する[2]。2つの状態間のエンタルピー変化は配位子場分裂エネルギーとスピン対生成エネルギーの影響を受ける[2][注 1]。一方、低スピン状態から高スピン状態へのスピン多重度エントロピー変化は常に正であるため、温度の上昇によりギブスの自由エネルギーの符号が正から負に変換される可能性があり、これによりスピンクロスオーバーが起こる[2][3]。つまり一般に、低温ではエンタルピー的優位性から低スピン状態が有利となり、高温ではエントロピー的優位性から高スピン状態が有利となるが、分子間相互作用の強さによって結合長が変わり振動エントロピーが変化することで、スピン状態の転移は連続的なものから不連続な一次相転移といろいろな形態を示す[4][2][3]

スピンクロスオーバーには相転移型スピンクロスオーバーと平衡型スピンクロスオーバーに大別される[5]。相転移型スピンクロスオーバーは狭い温度域で突然発生するスピンクロスオーバーであり、平衡型スピンクロスオーバーは広い温度域で非常にゆっくりと発生するスピンクロスオーバーである[5]。平衡型スピンクロスオーバーは非常に遅い相転移であるが、高スピンと低スピンの間のスピン変換速度は相転移型よりか一般に早く、例えば、鉄原子のメスバウアー分光の時間スケール(10-7 s)よりか短いため、両スピンの平均化された四極分裂しか観測されない[注 2][5]

摂動

熱摂動

熱摂動は、スピンクロスオーバーを誘発するために用いられる最も一般的な外部刺激である[6]。熱摂動によるスピンクロスオーバーの例として、[FeII(tmphen)2]3[CoIII(CN)6]2三方両錐体型錯体が挙げられる。なお、この錯体においてFeIIはエクアトリアル位に位置する。高スピンFeIIは 4.2 K to 50 Kの範囲では20パーセント未満にとどまっているが、室温では、メスバウアー分光で2.1 mm/sの吸収帯を示すように、試料中のFeIIの約3分の2が高スピン状態となっている。このような熱摂動によるスピンクロスオーバーはエントロピーによって駆動される。低スピンから高スピンへの転移に伴う全エントロピー利得のうち、約25パーセントは次の関係式に従うスピン多重度の増加に由来する。

なお、より大きな寄与は振動効果によるものである[7]。これは高スピン状態では金属と配位子の間の結合距離が長くなるためである[7]

圧力摂動

スピンクロスオーバーは圧力の印加によっても影響を受け、高スピン状態と低スピン状態の存在比が変化する。圧力を加えると、高スピン状態から低スピン状態への転換が起こり、T1/2錯体の半分が低スピン状態になる温度)がより高温側にシフトする。この効果はポテンシャルエネルギー曲線の底(ポテンシャルの井戸)の相対的な垂直方向の変位が増大し、零点エネルギー差ΔE°HLが増大すること、および活性化エネルギーΔW°HLが減少することに起因しており、いずれも低スピン状態に有利に働く[8]。一例としてFe(phen)2(SCN)2は圧力によるスピンクロスオーバーを示す。この錯体は高圧下では低スピン状態が優位となり、転移温度T1/2は上昇するが、これは圧力印加により高スピンおよび低スピンの両状態における金属-配位子の結合距離の差が系のエントロピーを変化させることに起因する。転移温度の変化と圧力の関係は以下のクラウジウス・クラペイロンの式に従う[8]

圧力の増加はFe(phen)2(SCN)2単位格子の体積を減少させ、系のT1/2を増加させる。Fe(phen)2(SCN)2に印加される圧力とT1/2は線形関係にある。

光摂動

光摂動によるスピンクロスオーバーはLIESST(光誘起スピン転移)と呼ばれている[9]1984年(昭和59年)にS. Decurtinsが初めて報告した。低温下では光照射後しばらくの間、錯体を準安定高スピン状態に閉じ込めることが可能であり、この現象はLIESST効果と呼ばれる[10] [11]。低スピン状態の金属錯体のd-d遷移吸収帯、もしくはMLCT吸収帯を光照射することで高スピン状態への転移が起こるが、異なるエネルギーを持つ光を照射することで可逆的に低スピン状態にすることができる(逆LIESST効果)[12][13]。LIESST効果の原理を説明する良い例として[Fe(1-propyltetrazole)6](BF4)2がある。[Fe(1-propyltetrazole)6](BF4)2に50 K以下の温度で緑色光(d-d遷移吸収帯)を照射すると、スピン許容遷移である1A11T1の遷移が進行する[14][12]。しかし、励起状態1T1は短寿命で、元の状態1A1に戻るよりか項間交差を経て準安定高スピン状態5T2への遷移が有利に進行する[14]。この準安定高スピン状態5T2は低スピン状態への遷移がスピン禁制であるため長寿命となり、このためにLIESST効果が生じる[12]

LIESST効果と逆LIESST効果を表したヤブロンスキー図

LIESST効果を示す錯体の多くは、Fe2+錯体であり、Co2+錯体やFe3+錯体はほとんど発見されていない。これはFe2+錯体と比べてCo2+錯体やFe3+錯体では高スピン状態と低スピン状態の間で結合距離の差が小さく波動関数の重なりが大きいため、トンネル効果により準安定高スピン状態を作り出すことができないことが原因である[15][16]。しかし、π-πスタッキングなどの強い分子間相互作用を導入して双安定状態ポテンシャルにおける活性化エネルギーを変化させることで、光励起準安定状態を保持できるようになり、LIESST効果を示すことができる[15][16]

これまで報告されている温度(約80 K)よりも高い動作温度を持ち、かつ長寿命な光励起状態を有する光スイッチング材料を設計することを目的として、LD-LISCと呼ばれる光磁気効果が有望なアプローチとして注目されている[17][18]。LD-LISCでは光照射による光感受性配位子の可逆的な光化学変化によって生じる配位子場(LF)強度の変化を利用し中心金属のスピン転移を誘発する[18]。つまり、配位子が本質的に影響を受けない通常のスピンクロスオーバーと異なり、LD-LISCでは光応答性配位子の構造変化が伴う。光感受性配位子の可逆的な光化学反応はシス・トランス光異性化反応が広く用いられている[18]

開発

スピンクロスオーバーは刺激応答性分子スイッチとして磁気双安定性と外部刺激(温度、圧力、光、電場など)をリンクさせる能力を有することから、情報ストレージ、生体模倣センシング、分子デバイスへの応用が期待されており、盛んに研究が行われている[19][20]

脚注

参考文献

関連項目

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