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一芸入試

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一芸入試(いちげいにゅうし)とは、学力審査に基づく選抜ではなく、受験者が申告する特技や入学への熱意を査定して入学者を選抜する方法を指す。

スポーツ競技歴を審査し入学を許可するスポーツ推薦が広く知られているが、大学入試においては総合型選抜(AO入試)、自己推薦入試、公募制推薦入試などでも活用されまた、各学校によって名称は様々である。

スポーツ推薦

一芸入試の代表例がスポーツ推薦である。このスポーツ推薦入学試験制度は、入学希望者の競技実績を主な評価項目に位置づけ、主に推薦入試の枠組みにおいて実施される入試制度として知られる。

スポーツ推薦では各学校で条件が異なるが、学費の免除などが受けられる特待生として入部させる学校も多くある。そして、一般入試で入学する入部希望者には必要な条件を明示したり、募集をしていなかったりする学校もある[1]。

大学入試においては、「高校時の競技歴を評価して選抜する入試制度」と定義される[2]。

元来より、日本の大学入試は選抜の公平性を重視し、学力試験を中心としてきた[3]中で、競技実績を選抜根拠とするスポーツ推薦入試は、特殊な入試制度として位置づいている。大学入学への入口が競技実績に基づいた評価によって開かれている状況は、特にアスリートのキャリア形成の観点から見れば、大きな社会的意義を有している。例えば、2014年の調査で、オリンピック等の国際競技大会に出場した日本代表選手のうち、約65パーセントがスポーツ推薦入試を利用して大学に入学していることが知られているからである[4]。

スポーツ推薦の歴史的変遷は以下のようにまとめられる[5]。

  • 日本では推薦入試の公認以前から、競技者に対する入試の優遇措置が図られていたが、これは入試要項などに明示されるものではなく、あくまでも「非公開」の制度であった。例えば、野球においては、1891年(明治44年)8月29日から9月22日刊まで、東京朝日新聞が、「野球と其害毒」と題した記事を22回にわたって掲載。野球熱の高まりに対して、野球に熱中するあまりに学問がおろそかになる学生たちや、興業化する学生野球に警鐘を鳴らした野球害毒論である。「試験も受けずに野球だけで入学した学生は、学業に全くついていけず落第している」と新渡戸稲造(当時一高校長)らから批判された。現代のような制度化されたスポーツ推薦やスポーツ特待生制度は存在しなかったが、水面下での有望選手の引き抜き(スカウト)や入学・進学その他に際しての優遇措置はすでに横行しており、これがまさに害毒論を生む大きな原因の一つとなっていた[6][7][8][9]。
  • 1965年頃から文部省が推薦入学制度を公認し始め、1967年の文部省令によって実施要項が明確化。文部省によって推薦入試が公認されたのは1966年からであるが[10]、実質的に推薦入試の拡大の嚆矢となったのは翌年の1967年であり、このとき文部省は推薦入試を「学力検査を免除して出身学校長からの推薦に基づいて判定する方法」[11]と定義することで、その形式と性格の明確化を図ったのであるが、これを機に、大学側は運動部のさらなる強化(例えば箱根駅伝や大学野球など)を目的として公式な「スポーツ推薦枠」を設け始めることとなった。
  • 推薦入試公認直後の時期は、大学紛争を通して、競技者に対する入試の優遇措置が批判にさらされ、従来のような優遇措置を実施することが困難となった。そのため、1960年代後半から1970年代初頭にかけて、各大学では競技者に対する入試の優遇措置が縮小ないし撤廃されていった。
  • 一方でこの時期の私立大学の体育系学部では、推薦入試制度の公認直後から積極的に推薦入試が行われた。体育系学部における推薦入試では、体育系学部が求める学生像と、競技者が有する運動能力が合致することで、競技者向けの特別枠を設けなくとも、競技者を確保することが可能になっていた。
  • 1970-80年代に、私立大学を中心に、競技者に対する特別枠を設けた入試が実施された中では、例えば早稲田大学教育学部による「体育学専修特別選抜」は、大学で体育学を専攻するのを希望する競技者を対象に特別枠を設け、さらに競技種目・実績を指定し、公開のもとで実施された。ただし、この入試は、運動部の強化のための制度か否かという点で、その制度的位置づけと目的にジレンマを抱えた。スポーツ推薦入試が定着する一方で、「スポーツができれば学業は免除される」という風潮も再燃するのである。
  • 1987年(昭和62年)の臨教審答申では、スポーツ活動の評価を入試の際に考慮することが求められた。そして、その答申に沿って改訂された「昭和64年度大学入学者選抜実施要項」において、大学入試における選抜方法として「スポーツ・文化等の各種分野における諸活動の適切な評価」が示された。
  • 1990年代以降、選抜方法の多様化政策が進み、学力評価の多様化から学力以外の多様な選抜方法の導入へと進んでいき、大学入試のあり方が大きな転換期を迎える中で、多くの大学がスポーツ推薦入試を導入していった。AO入試といった新たな入試方式が生まれたことも後押しして、スポーツ推薦入試の実施形式も多様化していった。
  • このような入試改革が実施されるようになった背景には、臨時教育審議会第一次答申(1985年)から、1991年の中央教育審議会答申と、文部大臣の諮問機関であった大学審議会の報告(1993年)などの中で謳われてきた「個性重視」の選抜を実現するために、詳細な書類審査と面接試験を組み合わせた評価尺度の多元化に基づく制度化が挙げられる。これ以降、一般試験以外の大学入試は社会人入試や帰国子女入試などといった様々な入試形態を包含しながら発展を遂げたが、スポーツ推薦入試も例外ではなく、従来の推薦入試に加えてAO入試の枠組み内でも「スポーツAO入試」などと称されながら多用されていった。大学審議会でも「大学入試の個性化・多様化の事例」として、2000年当時に早稲田大学人間科学部スポーツ科学科で実施されていた「スポーツ科学科特別入学選抜試験」を紹介。このことからも、1980年代後半から1990年代初頭に導入された一芸入試の展開状況は、学力試験のみに依らない入試方式の拡大の証左とし、結果的には平成以降のスポーツ推薦入試拡大の追い風にもなったとみられている[12]。

大学が「スポーツ推薦」を積極的に導入するのは、有望選手が一般入試を挑まれても、合格点に達しなければどんな有望選手だろうと入学できないからである。例えば慶應義塾大学はスポーツ枠はあったものの、1973年に世代屈指の好投手であった作新学院高等学校の江川卓投手は慶應義塾大を一般受験したが、不合格になる。この時は合格発表を見る江川をテレビカメラが追いかけ、大きな話題となったことが知られるが[13]、実はこのとき慶應側は熱心に誘い学内でも野球好きの教員が大学当局に働きかけていたというが、かなわなかったのである[14]。

高校入試におけるスポーツ推薦(文化・スポーツ等特別推薦)は、中学時代の部活やクラブチームでの顕著な実績と運動能力を評価する制度で、一般的に学力試験の一部免除などのメリットがあるが、出願には都道府県や高校が定める実績基準と、一定の内申点のクリアおよび部活を継続する強い意志が必要となる[15]。

野球の中等学校へのスポーツ入学については、日本での歴史的変遷は1915年(大正4年)に大阪朝日新聞が、全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)を、様々な制限を設けた上で実施すると、翌年1931年(昭和6年)には文部大臣の諮問機関である体育運動審議会は、大臣からの諮問事項「体育運動競技の健全なる施行方法に関する件」の答申を発表し、答申の具体化の第一歩として1932年(昭和7年)に「学生野球の健全な施行の方法」が小委員会で審議されると、鳩山一郎文部大臣は文部省令として「野球統制令」を発令。旧制中学校の全国大会の開催や大学野球連盟の設置には、文部省の承認が必要とされるようになる。その後、戦時中の文部省の学生野球弾圧の法的根拠となった。ただし野球統制令の発令は、有力選手を青田買いして学費を免除するなどの手法による上級学校への入学あっせん行為が横行し、文部省がしてこれを問題視したことが発端。現在の高校野球におけるスカウティング(中学生の勧誘)の歴史は、昭和初期の有力選手獲得競争に始まっていたのであるが、このときに優秀な選手を学費免除などで勧誘する「選手争奪の弊害」が厳しく禁止事項にされたことで、これが戦後の日本学生野球憲章の特待生禁止に引き継がれた[16][17]。

スポーツ推薦の課題として、「学業への不適応」の他、大学ならば「受験生が学部を選べないことがある」「スポーツ推薦で入学した以上、運動部に属さねばならないケースが大半で、ケガや人間関係の悩みなどに直面すれば、苦しい大学生活を強いられる」といった問題点が指摘されている[2]。

スポーツ推薦以外

スポーツ以外も審査対象とする一芸入試として、「文化・芸術活動に優れた者の特別選抜入学試験[18]」(立命館大学)、「一芸一能選抜[19]」(九州国際大学)、「一芸一能推薦」(亜細亜大学)などが存在する。高知女子大学保育短期大学部では「くろしお入試」と呼んだ。

もともと亜細亜大学の「一芸一能入試」は衞藤瀋吉が学長時代の1988(昭和63)年に「ユニーク推薦入試」の名称で実施が決定され、翌年の1989年度入学者試験からスタートしたが、これは大学入試に偏差値だけでない評価軸を提示する、多角的に受験生のやる気や能力を見る試験制度として発足、現在も一芸一能入試として続いているとともに、粉川真一、寺本進、横田宗、野口健などが大学進学する。そしてこの入試の登場で大きく増えたのが、芸能人の大学進学で、この入試改革は芸能人に学歴は不要という世間の考えを壊し、芸能人の大学進学の道筋を作るきっかけとなったといえ、結果、絶大的な人気を誇ったアイドルグループのメンバーや若手俳優、女優などが入学していくことになった[20]。

なお、当初は1988年に早稲田大学社会科学部が導入した自己推薦入試も、1993年に慶応義塾大学総合政策学部と環境情報学部がAO入試として導入した試験も、一芸入試として捉えられていた[21]。

名古屋学院大学の調査では、一般入試による入学者に比べ、推薦入試による入学者の方が退学・除籍および転学部・転学科者が多かった[22]。東京工芸大学の調査では、推薦入学試験で入学した新入生の平均点は、一般入学試験で入学した新入生の平均点よりも5教科全体で低い結果となった[23]。これらの調査から、一芸入試を含めた推薦入試制度に否定的な意見がある。そして総合型選抜を語るときに、この選抜方法がかつては学力不問の「一芸入試」と揶揄された[24]などと、一芸入試は入学試験方法として揶揄される傾向にある。

関連項目

脚注

参考文献

外部リンク

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