スメラ学
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概要
日本で古代オリエント研究の先鞭をつけ、1916年(大正5年)にバビロン学会を起こした原田敬吾は、ハンムラビ法典を研究するなかでバビロン民族の容貌や宗教、習俗、言語などに日本民族との類似点を多く見出し、過去にバビロン民族の一部が日本に移住してきたという仮説を提唱した[1]。関東大震災によってバビロン学会の活動が停止した後、1927年(昭和2年)に大山祇神社の宮司三島敦雄が原田の論を継承発展させ、日本人の起源をメソポタミアのシュメール(当時は「スメル」表記)文明に求める日本人シュメール起源説を提唱した[2]。
第二次世界大戦直前から戦時下にかけて、「高天原はバビロニアにあった」とか天皇呼称の古語「すめらみこと」は「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した[3]。このため、日本におけるシュメール学の碩学だった京都大学・中原与茂九郎[注釈 1]がこれを避けるためそれまでの「スメル」や「シュメル」表記に代わるものとして「シュメール」と長音記号を入れて表記した[3]。これが現在の日本における「シュメール」表記の慣習の起源である[3]。
この「日本人シュメール起源説」に傾倒した人物に著名な哲学者・国粋主義の思想家でオピニオンリーダーだった仲小路彰がおり、以後仲小路は元々は単に日本人や皇室の起源を中東に求めた俗説だった日本人シュメール起源説を国粋主義や皇国史観に基づいた思想運動であるスメラ学として発展させていく。
1940年、仲小路や同じく哲学者の小島威彦と陸軍軍人高嶋辰彦の発案で「スメラ学塾」が開講され、塾頭には末次信正海軍大将が就き[5]、講師として奥村喜和男、石原広一郎、大島浩、白鳥敏夫、平出英夫、丸山熊雄ら[6]が参加した。 原節子の義兄の映画監督熊谷久虎もスメラ学塾に参加し、学塾内に劇団太陽座を結成する[7]。 またその思想に感化された川添紫郎(小島威彦のいとこ[8]、のちにイタリア料理店「キャンティ」オーナー)や建築家の坂倉準三らが「スメラクラブ」という文化サロンを結成し、川添の妻でピアニストの原智恵子やオペラ歌手の三浦環などの当時の名だたる文化人が集った[9]。
1942年、スメラ学塾は財団法人日本世界文化復興会を設立した。会長に陸軍大将宇垣一成、副会長に日本商工会議所会頭の藤山愛一郎が就任した。日本世界文化復興会は1942年に東京・上野で同盟国イタリアとの友好事業として駐日イタリア大使館の協賛のもと開催されたアジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会を主宰するなど、戦時下の日本社会で影響力を発揮した。
スメラ学塾によって展開された思想は上述の「日本人シュメール起源説」に加えて皇国史観の他、日ユ同祖論やユダヤ陰謀論、ムー大陸説などを集合させてエスノセントリズムを主張するものであり、軍部主導のファシズム運動を偽史や陰謀論でサポートした他、ナチスがドイツ本国で出版した書籍を日本語訳する『ナチス叢書』の発刊や、戦争文化研究所の設立にも関与し、戦時下における日本の政治思想の一翼を担った。
仲小路は、上代において日本を根軸とする「スメラ太平洋圏」があり、進行中の太平洋戦争を「上代スメラ太平洋圏復興への皇御軍(すめらみいくさ)」と考えていた[10]。 一方で坂倉の義父である西村伊作は、「(坂倉らが関係しているスメラという団体は)人類の根本の人種であるスメル人が日本にも移り住み、それが日本の天皇のすめら命になったと言っているが、一種の誇大妄想狂だ。坂倉はこの戦争に勝ってオーストラリアを全部取ったら別荘を作って遊びに行ったり、飛行機でパリに買物に飛んで行く、というようなことを空想していた。」と書き残している[11]。 保田與重郎もスメラ学について京都学派の系統と見做したうえで音義説に基づく邪教の類として伝統的な国学の立場から批判した[12]。
スメラ学は名前こそスメル(シュメール)にちなんだものだったが旗振り役が国粋主義の哲学者で賛同者が軍人や日独伊三国同盟締結で活躍した外交官や軍部に協力的な文化人だったことからわかる通り、その興味関心や目的は実際のシュメール文明の実相の研究ではなく、戦時下において「人類の文明の根源人種であるシュメール人の末裔である大和民族がかつて世界を支配しており、再び世界を支配する理由がある」という偽史に基づく歴史観の構築と、同じくシュメール人の系統で傍流であるとみなしたユダヤ人を反ユダヤ主義に基づいて攻撃することでナチスドイツとの同盟を正当化することに向けられていた。 さらにスメラ学塾は日本軍が南方占領地で行った宣撫工作に人員を派遣するなどの関与を行っており[13]、かつてそれらの地域が日本を中心とするスメラ太平洋圏に属していたと言う主張は日本による占領統治において日本語教育の実施や、神社の建設・参拝や宮城遥拝などを強要するなどといった日本文化を現地人に押し付ける政策への正当化に都合が良いものであった。 またレオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会やナチス叢書への関与に見られるようにその関係者は日本や(シュメールの故地の)中東では無くむしろ欧州方面の文化への興味関心が強く、主にドイツやイタリアとの交流事業において活動を行った[注釈 2]。 敗戦によって自民族優越主義に基づいていたスメラ学は雲散霧消し、「シュメール」の名付け親である中原与茂九郎らによって日本における実証学的な古代シュメール研究が開始された。