中原与茂九郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
出身は岡山県倉敷市浅口郡西阿知町(現・倉敷市西阿知地区)[2]。1919年(大正8年)に岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)、1922年(大正11年)に第六高等学校、1925年(大正14年)3月に京都帝国大学文学部(西洋史学専攻)を卒業した。同大文学部助手ののち、翌1926年(大正15年)3月、新設の広島高等学校教授に任命された[注釈 1]。1929年(昭和4年)5月下旬から1930年(昭和5年)9月まで、文部省留学生としてオックスフォード大学に留学し、アッシリア学研究を行った[5][注釈 2]。オックスフォード大学では、ステファン・ラングドンの指導を受けた[6]。1949年(昭和24年)8月、学制改革により広島大学教養部教授に任命された[2]。
ほどなくして1951年(昭和26年)4月、母校である京都大学にアッシリア学・シュメール学の後継者を育てるという熱意のもと、京都大学分校(現・教養学部)教授として着任した。その後1963年(昭和38年)4月16日[7]に定年退官するまで、教養学部の西洋史担当として教育に努めつつ、文学部と文学研究科においてシュメール史とシュメール語購読と特殊講義を担当していた[8]。退官後、すぐに立命館大学文学部に大学院担当教授として就任。以降、1972年(昭和47年)まで後進の育成に力を注いだ[5]。
1973年(昭和48年)秋、広島市西区に移り住んだ。1988年(昭和63年)3月27日未明、脳内出血により広島市西区己斐上の自宅で逝去[1][5]。享年87歳。
研究内容
- 研究対象について、時代はシュメール初期王朝期から古バビロニア時代まで、言語はシュメール語に加えてヘブライ語やカナン語、社会学的には支配イデオロギーや宗教思想、社会経済など、幅広い分野にわたっていた[5]。特に力を入れていたのは、シュメールにおける社会・経済の状況についてである[1]。
- 研究の際には、行政経済文書や王碑文といった一次資料に基づいて社会経済史の研究を行うことが重要であると強調しており[9]、行政経済文書を用いて分析した論文を多く書いた。中原の研究によって、例えばシュメールでの折半小作制の存在が初めて明るみになり、さらに、土地売買文書に係る問題が初めて本格的に研究されるようになった[1]。
- 最初の著書である、"The Sumerian tablets in the Imperial university of Kyoto: Memoirs of the Research Department of the Toyo-Bunko No.3." は最も顕著な業績の一つである[10]。この著書は、日本における楔形文字研究の誕生を世界に知らしめるものであった[1]。中原は『六書』の手法を援用して楔形文字でも、漢字と同様の文字の構成の仕方がみられることを明らかにした。
業績
- 京都大学在任中の1956年(昭和31年)6月、足利惇氏を会長、宮崎市定を副会長として、「西南アジア研究会」が発足し、翌年、会誌『西南アジア研究』が創刊された[11]。中原は『西アジア学の発祥』という題の手記を[5][6]。退官までの数年間では副会長をつとめた[1]。さらに、上記三名の尽力により、1957年(昭和32年)には、京都大学文学部史学科内に「西・南アジア史コース」が開設され、中原は毎年アッシリア学関係の講義を担当した[1]。このコースが母体となり、1969年には文学部西南アジア史学講座が開設され、これが現在の文学部西南アジア史学研究室につながっている[12]。
- 1973年(昭和48年)の「シュメール研究会」の創設に携わった。中原はシュメール研究会の会長兼顧問であった。この研究会には中原を中心とした古代メソポタミア研究者が集まり、年に1回か2回、京都か広島で活発な議論が行われた。1979年(昭和54年)からは、シュメール研究会の欧文機関紙 Acta Sumerologica が年に1回発行されるようになり、この第一巻は中原への献呈論文集として創刊された[1]。
- 古代メソポタミア研究者の育成に力を注いだ。京都大学では、吉川守、山本茂、小野山節、前川和也ら、次世代のシュメール研究者を育てた[1][3][13]。
逸話
- 中原が古代メソポタミアに興味を持ったのは、1922年(’大正11年)、京都帝国大学文学部の一回生のころであった。当時、史学科には濱田耕作、原勝郎、坂口昂らがおり、彼らの指導のもとで、未開拓の分野であった古代メソポタミア史を学ぶことになった。
- 息子である中原俊輔は、中原与茂九郎が所蔵していた洋書をすべて、京都大学文学部西南アジア史研究室に寄贈した。この中原文庫にはアッシリア学に関する洋書が多く含まれている[1]。
- 第二次世界大戦中、天皇(スメラミコト)はスメル(シュメール)のミコトだと言ったり、高天原はメソポタミアにあったと言ったりする人がいた。三笠宮崇仁親王によれば、そこで当時京都大学にいた中原がスメルをスメラミコトと混同されないように、シュメールと長音(ー)を入れるようにしたという[14][15][16]。
- 囲碁を趣味として嗜んでおり、有段者に相当する腕前だったようである[17]。また、釣りも趣味であった[2]。
- 三世紀を生きると公言しており[1]、2000年まで生きることを目指す「三世紀会」の会員であった[5]。
- 若いころからクリスチャンであり、家族もそうであった。葬儀は死の翌日に、広島市内の日本キリスト教団流川協会によって執り行われた[18]。
中原史子記念平和文庫の誕生
中原は1945年8月6日の原子爆弾投下により、妻の真理枝(当時44歳)、長女の史子(当時17歳)、長男の廣太郎(当時12歳)を亡くした[19]。当時、広島高等学校教授であった中原は原爆投下時、屋外での朝礼で出欠をとっており、建物の陰になって直接の被ばくは免れたようである[20]。妻の真理枝は、雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業に出ており、そこで被爆した[19]。中原に学んでいた岸本弘らによって、大八車で中原の自宅まで運ばれ、その後中原に看取られて亡くなった[21][4]。長男の廣太郎は、被ばく後自力で帰宅し、午前11時40分に中原に看取られて死去した。広島女学院専門学校1年生であった史子は、八丁堀の広島財務局に動員されていたが、8日に死亡。広島大学付属小中高の校庭で3人を荼毘に付した[6][19]。また、中原は再婚した妻も原爆症で亡くしている[22]。
1978年、中原は原爆で亡くなった長女の史子を記念して、広島女学院大学(当時は広島女学院専門学校)に百万円の寄付を行い、同大学図書館内に中原史子記念平和文庫を設立した。現在、原爆関連の図書が490冊収録されており、その中には現在入手困難な貴重なものも含まれている[22][23]。
受賞・栄典
主な書籍・論文
著書
- Yomokuro, Nakahara (1928) The Sumerian tablets in the Imperial university of Kyoto: Memoirs of the Research Department of the Toyo-Bunko No.3. Tokyo: Toyo Bunko.
- 中原与茂九郎(1934)『岩波講座東洋思潮 西南亜細亜の文化〔41〕』東京: 岩波書店.
編著・共著
- 羽田明他(1953)『京大東洋史 下 西アジア・インド史』大阪: 創元社.
事典・辞典項目
- 中原与茂九郎(1959-1962)「アッカード王朝、アッシリア王国ほか」平凡社(編)『アジア歴史事典』東京 : 平凡社.
論文
- 中原与茂九郎(1941)「シュメール法に就いて」京都帝国大学文学部史学科(編)『紀元二千六百年記念史学論文集』734-763.
- 中原与茂九郎・吉川守(訳)(1958-1964)「プレサルゴン時代の社会経済資料1-7」『古代学』[注釈 3]
- 中原与茂九郎(1968)「シュメール王権の成立と発展-ウルク古拙文書からウル第三王朝の文書までー」『西洋史学』77: 1-20.