スルタン・アリー・ケシュトマンド
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カーブル州チャルデヒ郡出身。ハザーラ人。父は、店のオーナー。カーブルのハビビア貴族学校を卒業し、1956年~1961年、カーブル大学経済学部で学んだ。
- 1961年 - 軍に勤務した後、鉱業・産業省で働く。
- 1965年~1966年 - 反政府デモに参加して逮捕された。
- 1967年~1968年 - 鉱業・産業省経済部長。
- 1968年~1973年 - 他の省庁の官僚
- 1965年と1969年 - 議会に出馬したが落選した。
- 1973年 - 国務から解雇
1965年1月、アフガニスタン人民民主党第1回会議代表となり、同党中央委員会委員に選出された。パルチャム派。1968年~1970年、「パルチャム」紙編集員。党の分裂後、1971年からパルチャム派の執行委員会委員。1977年の党の再統合後、中央委員会政治局員、理論・扇動・宣伝担当委員に選出された。
四月革命後の1978年5月1日、計画相。同年8月、ヌール・ムハンマド・タラキー打倒の陰謀参加の嫌疑で逮捕され、死刑を言い渡されたが、ソ連政府の要請により、終身刑に減刑された。1979年10月7日、懲役15年に更に減刑された。ソ連軍のアフガン侵攻後、1979年12月27日に釈放された。
- 1980年1月10日 - 副大統領、副首相、計画相、党政治局員、革命軍事会議幹部会議員
- 1981年6月11日~1988年 - 首相兼ゴスプラン議長
- 1988年6月22日~1990年6月 - 党中央委員会書記
- 1989年2月19日~1990年5月4日 - 最高国防会議副議長、閣僚会議執行委員会議長(後に首相)
- 1990年5月6日~1991年4月 - 第一副大統領
- 1990年6月 - アフガニスタン人民民主党が祖国党に改名し、同党中央会議執行委員会委員に選出された。
- 1991年4月 - 全ポストから辞任
- 1991年7月16日 - 祖国党から脱党
1990年代初め、ロシアを経てイギリスに移住し、政治難民の地位を得た。晩年はロンドンに過ごして、2026年3月13日に同地にて死去。90歳没[1][2]。