スルドタイ
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スルドタイは「四駿」と讃えられた建国の功臣ボロクルの一族で、ヒタイ(華北)方面タンマチの指揮官タガチャルの孫として生まれた[1]。スルドタイの父のベルグテイが1258年(戊午)に南宋との戦いの中で陣没すると[2]、当初その長男でスルドタイの兄であるミリチャルがその後を継いだ[1]。ミリチャルもまた襄陽・樊城の戦いで陣没すると、至元7年(1270年)に「蒙古軍万戸」に任命されたのが弟のスルドタイであった[1]。
至元8年(1271年)にはスルドタイもまた襄陽・樊城の戦いに加わり、南宋の荊湖北路一帯(鄂州・岳州・漢陽軍・江陵府・帰州・峡州)の戦闘で功績を挙げた[1]。襄陽城の陥落により、南宋領への全面侵攻が可能となると、スルドタイは江南西路への侵攻を担当することとなった[1][3]。至元12年(1275年)7月にスルドタイを長とし、漢軍万戸武秀・張栄実・左副都元帥李恒・兵部尚書呂師夔らを配下とする軍団(行都元帥府)が編成され、スルドタイは隆興出征都元帥の称号を授けられた[1]。
スルドタイは李恒らとともに江南西路各地で勝利を重ね、11城を攻略して江南西路一帯を平定した。さらに嶺南・広東への侵攻をも計画していたが、崖山の戦いで南宋が完全に滅んだ後、論功行賞に至る前の至元13年(1276年)に亡くなってしまった[4][5]。