セレスティーヌ・ガリ=マリエ
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生涯
セレスティーヌ・マリエ・ド・リルは、1837年 3月15日に生まれた[注釈 1]。
彼女は著名なテノール歌手、クロード=マリー=メセーヌ・マリエ・ド・リルの娘だった[3]。ストラスブールでデビューした後、トゥールーズで歌い、1862年にエミール・ペランによってオペラ・コミック座に採用された。
そこで彼女はアンブロワーズ・トマの『ミニョン』(1866年)のタイトルロール、ジャック・オッフェンバックの『ロビンソン・クルーソー』(1867年)のヴァンドルディ(フライデー)役、そして特に1875年には、当時恋愛関係にあったジョルジュ・ビゼーのオペラ『カルメン』のカルメン役を創唱した[4]。
1872年、画家のジャン=ジョゼフ・ウェールツはサロンに彼女の肖像画を出品した[5]。
彼女は1905年9月21日にヴァンスで亡くなった[6]。ペール・ラシェーズ墓地には彼女の慰霊碑がある。

『カルメン』 の〈ハバネラ〉

岸純信によれば、ガリ=マリエはオペラ史上特筆すべき大歌手である。と言うのは、カルメン登場のエール(通作形式によるアリアのこと)が気に入らなかった彼女はビゼーに別の曲を作るよう要求した。世界一有名なオペラ・アリア〈ハバネラ〉「恋は野の鳥」の誕生につながった。彼女の一大功績である。-中略-元のエールは良く言えばリズミカルで親しみやすい一曲である。しかし、〈ハバネラ〉の魔力的な魅力とは比べようもないほどに旋律線は平板、これがそのまま『カルメン』に残っていたら、確かにオペラで一番弱い部分になっていただろうし、『カルメン』の知名度も著しく下がったに違いない。ガリ=マリエの鋭い指摘がビゼーを屈服させた結果、あの名曲〈ハバネラ〉が誕生しと思うと、その直感力はいくら賞賛しても足りない。以上のように解説している[7]。『カルメン』のリハーサルは困難を極めたが、その間もガリ=マリエはビゼーを支えたと言う[8]。
その他
『オックスフォードオペラ大事典』によれば、1862年にアイルランドの作曲家のマイケル・ウィリアム・バルフのオペラ『ボヘミアの少女』の主役をルーアンでのフランス初演でも主役を演じた。ガリ=マリエはシャルル・グノー、ジュール・マスネ[注釈 3]、ヴィクトル・マセらの作品もレパートリーにしていた[8]。 1862年にロンドンのハー・マジェスティーズ・シアターに出演した際、ある批評家は「彼女は、小柄で、優美で猫のように動き回る」と書いたが、感動を呼ぶ演技をした。彼女の『カルメン』はピョートル・チャイコフスキーが大いに称賛し、弟のモデスト・チャイコフスキーも彼女の奔放な情熱と神秘的な諦観したような面を称賛した[8]。
献呈
複数の作曲家が音楽を通して彼女に敬意を表している。
- エミール・デグランジュ作曲『ツバメのポルカ』(1867年)
- アルフォンス・デヴァン=デュヴィヴィエ作曲『アラブの女主人との別れ』(1868年)
- ポール・ラコーム作曲『ロンデッラ』(1877年)
- ジョルジュ・マルティ作曲『子守唄』(1898年)
- エミール・パラディール作曲『マンドリン弾きの女』(Mandolinata)(1869年)
- ガブリエル・ピエルネ作曲『カディスの娘たち』((Les Filles de Cadix、1883年)
- カミーユ・サン=サーンス作曲『パラディルのマンドリナータによるパラフレーズ』(1869年)
- イザーク・ストロース作曲『ミニョンのポルカ』(Polka sur 'Mignon)と『ロビンソン・クルーソーのポルカ・マズルカ』(Polka-mazurka sur 'Robinson Crusoé)(1867年)
- デルフィーヌ・ユガルド作曲『シュラミテ』(1878年)