ソビエト連邦の憲法
ソビエト社会主義共和国連邦の憲法
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歴史
1918年憲法
1918年7月10日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国はロシア社会主義連邦ソビエト共和国憲法を制定した。
ソビエト連邦は1922年12月30日に成立した。
1924年憲法
1924年憲法は1918年憲法をモデルにして作成された。1918年憲法とともに1924年憲法もレーニン憲法とも呼ばれる[1]が、1923年3月にレーニンは病気で発話能力を失っており、1924年憲法が批准された1924年1月には死亡している。
ソビエト連邦の各憲法は、ソビエト連邦を構成する各ソビエト社会主義共和国の憲法の直接の原型となった。
1936年憲法
1977年憲法
消滅
特徴
各憲法には共通の条項が存在した。その条項は労働者階級による指導で、後の2憲法では更に、ソビエト連邦共産党による政府と社会に対する指導的役割を宣言した。また全ての憲法は資産の社会的所有を堅持した。各憲法では統治上の権威としてソビエトまたは評議会による体制を標榜した。
各ソ連憲法は外見上では西側で採用された多くの憲法と類似しているが、相違点もある。ソビエト連邦の各憲法は、言論の自由、結社の自由、信教の自由などの政治的権利を宣言し、更に一連の経済的権利、社会的権利、全市民の義務などを規定し、議会は定期的な選挙で選出されるとされた。しかし、赤色テロをはじめ、ロシア革命で権力を掌握したボリシェビキは、「ブルジョワジー」階級だけでなく、ボリシェビキ政権への批判勢力や非ボリシェビキ政党を弾圧し、やがては大粛清にみられるようにソビエトロシア共産党党内での言論の自由も認めなくなった。
各憲法でのソビエト連邦共産党による指導的役割の規定により、実際には国家や社会の全ての政治的決定権は共産党が行う一党独裁制となった。例えば、ソ連憲法第62条には「ソ連の市民は、ソビエト国家の利益を守り、その力と権威の強化を促進する義務を負う。社会主義祖国の防衛は、ソ連のすべての市民の神聖な責務である。祖国への反逆は、人民に対する最も重大な犯罪である」と規定された[1]。ソ連憲法における「社会主義的全人民国家」の理論とは、左翼全体主義の国家理論であり、〈共産党の独裁〉の強化を覆い隠すものであった[1]。
関連項目
- ロシア革命 - 十月革命
- プロレタリア独裁 - 前衛党
- 働かざるもの食うべからず