タクシー (アルバム)
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『タクシー』(Taxi)は、イングランドのロック・ミュージシャンのブライアン・フェリーが1994年に発表した8作目のソロ・アルバムである[1][注釈 1]。
経緯
フェリーは前作『ベイト・ノワール』発表後、1988年から1989年にかけて、ロキシー・ミュージックの最後のツアー以来になる約5年ぶりのツアーを行なった[2]。その後、新作の製作に取り掛かり、デジタル録音と64トラックの録音技術の虜になった。妻ルーシーの兄弟でジャーナリストのエドワード・ヘルモア[注釈 2]は次のように語っている[3]。
珍しいことに、彼は実際にはスタジオで曲を書く。レコーディングの為に曲を書き上げて持って来るのではなく、スタジオでコラージュのように曲の断片を繋ぎ合わせる、そして何人もの素晴らしいセッション・ミュージシャンに演奏してもらい、その名人芸に合わせて編曲し直す。
フェリーは一流のミュージシャンを多数迎えて、このような複雑な作業過程を各曲毎に繰り返すので、誰のどの演奏がどの部分に最適なのかを決める時間は増える一方だった。彼は『ベイト・ノワール』の製作の直前にそれまでの15年間のマネージャーだったマーク・フェンウィックと決別し[4]、当時はマネージャーがいないに等しい状況にあった[3]。そして共同プロデューサーも持たずに、一人でアルバムの構想を膨らませて壮大なレコーディングを続けていき、制作を遅延させていった[5]。私生活では1990年に妻ルーシーが薬物とアルコールの依存症に陥って2年間に及ぶ治療プログラムに入り、1991年には母親が病死した[5]。アルバムの製作が長引くなかで、彼は不眠症の治療の為にハルシオンを服用し始めた[6]。
こうして1992年に発表する予定だった新作『ホロスコープ』の制作は行き詰まった[注釈 3]。彼はルーシーの提案を受け入れて、暫定的な企画としてアナログの録音機材を用いて手間をかけずにカバー集を制作することにした[7]。
彼はBBC Radio 1のジョニー・ウォーカーに次のように語った[8]。
古い曲は出発点だ。真っ新なカンヴァスからではなく、既にそこに存在するものから出発する。そこに存在する情報から欲しいものを取り出せる。元の歌詞を使うのは勿論だが、少し手を加えて自分により良いものにできる。旋律も同じだ。
内容
共同プロデュ―サーにはロビン・トロワーが起用された。トロワーはフェリーにもっと直接的な方法を採ることを勧め、彼が「音楽、特に演奏について白黒はっきりした見方を持てるようにした」。「我々は作業が終了するまで新鮮な気持ちを保てるように、全工程をできるだけ短くしようと決めた。彼はより簡素なアルバムを作ろうと、24トラックの録音に限定することにした」[7]。フェリーは自分のホーム・スタジオでデモ録音を作成し、ロンドンのマトリックス・スタジオでレコーディングを行なった[7]。
選曲はスクリーミン・ジェイ・ホーキンズの「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」、シュレルズの「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」などのブラック・ミュージック、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「オール・トゥモロウズ・パーティーズ」、エルヴィス・プレスリーが1960年に取り上げた「ザ・ガール・オブ・マイ・ベスト・フレンド」、広く歌われてきた讃美歌「アメイジング・グレイス」など多岐に渡った[1]。同じくカバー集だったアルバム『アナザー・タイム、アナザー・プレイス (いつかどこかで)』(1974年)と同じように、オリジナルの新曲が1曲収録された。
本作は1993年3月に発表されて全英アルバムチャートで最高位2位を記録し、同年2月に発表された「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」のシングル[9]は全英シングルチャートで18位を記録し、フェリーは『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出演した。