ターミナル島に設置された日系人の漁民をモチーフとした記念碑
1878年、和歌山県太地町で大背美流れと呼ばれる海難事故が発生し、古来から行われてきたクジラ漁が立ち行かなくなると、19世紀の末頃から漁民の一部が移民としてターミナル島へ定着。漁業と合わせてツナ缶の製造で生計を立てるようになった。最盛期には3000人以上の日系人が暮らしていたが、1941年に日本が真珠湾攻撃を開始すると、島の住民らはスパイ扱いされるようになった[2]、1942年2月19日にセオドア・ルーズベルト大統領がアメリカ西海岸の日系人に対して立ち退きと強制収容を決定。同年2月25日、島の日系人に対して48時間以内の強制退去命令が出された(集団立ち退き命令は全米初)[3]。やがて住民らは他のロサンゼルス市民とともにマンザナー強制収容所などへ収容された。
日本人の居住地のほとんどは第二次世界大戦中に破壊され、造船所などの工業施設が建設されるなど大きく変化した。戦後、解放された日系人は居住地が破壊されたターミナル島に戻ることはできず、周辺で漁業などを再開した。1971年、かつての住民らがターミナル・アイランダーズクラブを結成。2002年には、第二世代の住民らがターミナル島で記念碑(漁師の像や鳥居、歌碑)を設立した[4][5]。
2025年8月20日、ロサンゼルス市議会は、島に残る日本人ゆかりの2棟の建物を、「ふるさとツナ通り」として歴史文化記念物に指定することを、全会一致で決定した[6]。