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ターリバーンによる女性の扱い

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ターリバーンは、ハナフィー法理の原理主義的解釈に基づき、監視武力によって強制している女性の行動や服装に厳格な基準を設けている。人権団体や国際連合(UN)は、ターリバーンによる女性の扱い(ターリバーンによるじょせいのあつかい、Treatment of women by the Taliban)に批判的である。国連は、ターリバーンが取る男女の厳格な分離政策がジェンダーアパルトヘイト英語版に該当する可能性があるとしている[1]

2021年9月、ターリバーンによる2度目の支配権掌握1カ月後のカーブル市場にいたブルカを着た女性達

アフガニスタンの最初のターリバーンの統治時代、女性蔑視と女性に対する暴力で国際的な評判が悪かった[2][3]。 1996年には女性は公共の場で常にブルカを着用することが義務付けられ[4][5]、女性は働くことも8歳を超えて教育を続けることも許されなかった。教育を求める女性たちはターリバーンから認可されていない学校に通うことになり、彼女たちとその教師は捕まれば処刑される危険に身をおいていた[6][7]

女性は男性の付き添いなしでは男性医師に診てもらえず、多くの女性が医療を受けることを躊躇う原因となり、放置された病気や更なる合併症につながっていた。ターリバーンはこれら法律を公開鞭打ちと処刑によって執行していた。[8]:12, 31–32[9]

2021年にアフガニスタンの支配権を奪還した後、ターリバーンはまず女性が「イスラム基準」に従うことを条件に、性別で分離された教室での大学通学を許可していた[10]。しかしほどなくして、世界で類を見ない女子の12歳以降の学校通学を禁止するという制限を拡大した[11][12][13]。さらに、アフガニスタンの女性がほとんどの職種で働くことを禁止している[14]。医療や教育に関して限定的な例外があるが、これらの分野の多くの女性にとってターリバーンの制限は非常に複雑であることが証明されている[15][16]。全国的に禁止ではあるが一部の州では女子の中等教育が依然として認められている[17]。女性は公共の場でニカーブの着用が義務付けられ、近親者の男性親族なしで70キロメートル(45マイル)以上の移動を禁止されている。2022年、ターリバーンの隠遁的な最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダは、国際的な批判や人権制限緩和の要求を否定し、ターリバーンの統治に関していかなる交渉や妥協も拒否した[18][19][20]。アフガニスタンを占領してから2年の内にターリバーンは美容院を閉鎖、女性のジムや公園の利用を禁止した[21]。これらの制限は、イスラム教に根拠がないと主張するイスラム政府やアフガニスタン国外の聖職者を含むほぼ全員に対する非難に対抗するものである[22][23]

法律

ブルカを着たアフガニスタンの女性

8歳以上のアフガニスタンの少女たちは近親の「血縁者」、夫、義理の家族(マフラム英語版参照)以外の男性と直接接触することは許されていなかった[24]。1996年9月27日から2001年12月17日までターリバーンがアフガニスタンの90%を支配していた期間に女性に対して以下の制限を課した。

  • 女性はマフラムの同行なしで公の場に現れるべきではない[5]
  • 女性は公共の場でブルカを着用しなければならない[5]
  • 女性はハイヒールを履くべきではない。男性は女性の足音を聞くと興奮するからである[5]
  • 女性は公の場で大声で話してはいけない。見知らぬ人に女性の声を聞かせてはいけない[25]
  • すべての街路の窓は、女性が通りから見えないように塗りつぶすか幕を張るべき[26]
  • 新聞、本、店、家庭で少女や女性の写真を撮影・展示は禁止[27]
  • 「女性」という言葉を含む地名の改名。例えば、「女性の庭」は「春の庭」と改名[28][5]
  • 女性はアパートや家のバルコニーに出ることを禁止[5]
  • ラジオ、テレビ、一切の公共の集会も女性の出席を禁止[29]
  • 女性は川岸で洗濯物を洗うことを許されなかった。もし見つかれば、女性は男性の保護者に引き渡され、厳しく罰することになっていた[30]

移動

ターリバーンの公共行動に関する判決は女性の移動の自由に厳しい制限を課し、ブルカを着る余裕のない、またはマフラムがいない人々に困難をもたらした。ブルカはターリバーン台頭以前のアフガニスタンでは一般的に着用されておらず、1998年には9ドル以上(2025年には約18ドル相当[8])でかなり高価な衣服とされていた。女性たちは事実上の自宅軟禁に直面した[3]。1998年12月、勧善懲悪省の布告により、タクシー運転手が顔を完全に覆っていない女性の運送を禁止した[30]。一人で街を歩いたためにターリバーンにひどく殴られた女性はこう語った。「私の父は戦闘で亡くなりました...夫も兄弟も息子もいません。一人で出かけられなければ、どうやって生きていけばいいのですか?」[31]

NGOテール・デ・オムの現地作業員は、カーブル最大の国営孤児院タスキア・マスカンで女性の移動に与える影響を目の当たりにした。女性スタッフが解雇された後、施設に住んでいた約400人の少女たちは1年間、外出禁止の施設内に閉じ込められた[24]

女性の移動に影響を与えた法令は以下の通り

  • 女性の自転車やバイクの乗車をたとえマフラムがいても禁止
  • 女性はマフラムの同行なしでタクシー乗車を禁止
  • 男女が同じバスに乗車するのを防ぐために分離されたバスサービスの導入[25]

農村の女性の生活は一般的に安定した親族環境の中で生活し働くため、それほど劇的な影響はなかった。彼らが家事や労働の日常生活を続けるにはある程度の自由が必要であった。もしそれら女性が近隣の町に行った場合、同じ都市制限が適用されたと推察される[2]

雇用

ターリバーンは、男女がいる職場での女性雇用を認めていた過去のアフガニスタン法に反対していた。主張では過去の法律がパルダ(禁制)およびシャリーア(法)に反しているからというものであった[4]。1996年9月30日、ターリバーンはすべての女性の雇用禁止を布告した[32]。政府職員の25%が女性であると推定されており、他の部門での損失も加わると、何千人もの女性が影響を受けている[24]

もう一つの損失は、カーブルでは女子だけでなくすべての子どもの初等教育が閉鎖され、雇用された小学校の教師のほとんどが女性たちであった。1996年にターリバーンがカーブルを占領した後、数千の教育を受けた家族がパキスタンへ逃れた[3][33]:106

1998年4月から6月にかけて国連は、女性職員がマフラム同行でしか業務を行えないという規則をめぐる意見に対する不許可の判断を受け、カンダハールから事務所を撤退させた[34]。両者は後の労働条件については合意に達したが、ターリバーンはその合意自体を秘密にするよう要求した[34]。しかし、1998年8月に国連職員が亡くなった後、国連職員を含むほとんどの駐在員はアフガニスタンを離れた[34]

ターリバーン最高指導者ムハンマド・オマルは、女性公務員や教師に対して、短期間の申し出であるものの月約5米ドルの賃金を引き続き支給すると保証した[35]。ターリバーンの代表者は「我々が3万人の失業女性に月給を支給するのは、女性の権利を理由に我々を中傷する者たちに対する鞭打ちだ。そのような人々は根拠なきプロパガンダを使ってカーブルの女性たちをターリバーンに対抗させようとしているのだ」と述べた[4]。加えて1998年にターリバーンの幹部はクルアーンには「あなた方の家に留まり(女性形の命令文)」と書かれており従うしか方法がない、と述べた[36]

ターリバーンは女性が働かないようにするために拡大家族制度、つまりザカート制度の慈善活動を推進したが、長年の紛争により核家族は自立どころか追加の親族を助けることさえ難しい状態だった[3]。 特定の制度やサービスの利用資格はよく男性に依存され、例えば食糧援助は男性の親族が集めなければならなかった。女性に生きている男性の親族がいない可能性は、暫定外相ムラ・ガウスによって否定され、アフガニスタン人口のごく一部に対する国際的な関心と関心の度合いに驚いたと表明した[24]。1998年にカブールを訪れた人権のための医師団の研究者は、「路上生活者の街」とし、「昔は教師や看護師をしていた女性たちが、今やブルカの下で幽霊のように動き回り家財道具を売り払って、子供たちに食べ物を与えるために助けを求めている」と証言した[8]:3

女性の医療従事者は雇用禁止の対象外となる可能性があるが移動の自由が大幅に制限されていた[5]。分離されたバスの交通網と、広範囲で迷惑な政策による物理的通勤の困難で、女性の一部は自らの意思で仕事を辞めた。人々の多くは政権を恐れ、ターリバーンに露見されるのを最小限に抑えるために平日は病院にいることを選択した[3]。婦人科、出生前診断、助産といった職業の継続に女性は不可欠であるが、かなり妥協されたものであった。ラッバーニー政権下では、カーブルのマラライ産婦人科病院で働く女性スタッフは約200人いたが、ターリバーンの政権で残ったのはわずか50人程だった。2001年のターリバーン崩壊後にアフガニスタンで活動したNGOは、女性医療従事者の不足がそれら活動に大きな障害となっていることを確認した[37]

雇用禁止のもう一つの例外は、人道支援者の人数を減らして業務継続が認められたものであった。ターリバーンの隔離法により女性はより弱い立場の女性への接触や奉仕調査を行う上で非常に貴重な存在になっていた。この例外はターリバーン全体によって認められたものではなかったため、女性の社会参加、不参加の事例は状況によって異なっていた[3]。1995年以前のヘラートはアフガニスタンの中でも国際的で開放的な地域の一つであったため、ターリバーンが取る女性に対する方針が特に影響を受けた地であった。女性はこれまで限られた職種で働くことが許されていたが、ターリバーン当局によって阻止された。ヘラートの新知事ラザック・アフンザダは、女性がオフィスの前を通過すると自身が気が散るということでそれを禁じるよう命じた[38]:243

2022年5月19日、ターリバーン政権はすべてのテレビの女性司会者に放送中に顔を覆うよう命じた。この指令はターリバーンがアフガニスタンを再び支配し、女性省に代わって設立された勧善懲悪省から出されたものである[39]

2022年12月、ターリバーンは非政府組織(NGO)での女性の就労を禁止し、すべての組織に女性従業員の雇用を停止するよう命じた[40]。これは一部のNGOがアフガニスタンでの活動を継続不可能であることを意味した[41]

教育

最初のルール

ターリバーンは男子・女子双方に教育を提供するイスラムの義務を認めたと主張したが、8歳以上の女子が教育を受けることを禁止する布告がされた。勧善懲悪省長官マウルヴィ・カラマディンはこれはあくまで一時的な停学であり、施設や街の警備が男女間の接触を防ぐよう調整されれば女性は学校や職場に復帰すると主張した。ターリバーンはイスラム的だが受け入れ難いムジャーヒディーン版の教義に代わる新しいカリキュラムの内容を決定するため、イスラム法学者団体に求める前に、アフガニスタンを完全に治めたいと考えていた[3]

女性の雇用禁止はそれまでの教育システムに大きな影響を与えた。カーブル内だけでも、この判決は106,256人の女子、148,223人の男子学生、8,000人の女子大学学部生に影響を与えた。7,793人の女性教師が解雇され、教育の提供は打撃を受け、突如63校が教育者不足で閉鎖された[24]。一部の女性は自宅で地元の子どもたちのために秘密の学校を運営したり、ゴールデンニードル裁縫学校のような裁縫教室を名目に他の女性たちのために学校を運営していた。学習者、保護者、教育者はターリバーンに活動が知られた場合を認識していたが、厳格なターリバーン支配に閉じ込められていると感じていた人々にとって、こうした行動が、機会と自己決心、希望の感覚を抱くことになった[31]。1998年に教育省次官マウラウィ・サイード・シャヒドカイルは、女性教育にはその限界についてファトワーが必要だと説明した[36]

2021年以降

2021年8月のアフガニスタン支配後、ターリバーンは当初は大学の教室が「イスラムの基準に従う」限り性別を分けていた[10]。しかし、2021年9月には男子のみの学校復帰が認められ、10代のほとんどの女子が中等教育に戻ることができなくなった。この禁止は小学校には影響はなかったが、女子の出席率も大幅に減少したとされている[12][13][14]。2022年3月、突然ターリバーンは女子の中等教育(アフガニスタンでは7年生以上と定義される)への再開許可の計画を撤回した。現在の大学生を除いて、この決定によってアフガニスタンの女性や少女にとって6年生卒業が最高の教育水準となった。男子の中等学校は予定通り再開された[42]ムハンマド・タキ・ウスマニ英語版を含むパキスタンのイスラム学者たちは、ターリバーンに対し女子のための中等学校の再開を促した[43]

2022年12月20日、高等教育省は、女性が大学教育から停止されていることを公立・私立大学に通知[44]、同省は、女性の出席は「大学に適切な環境が整うまで」停止されると述べ、まもなくそのような環境を提供すると約束した。しかし、BBCニュースは、同様の中等教育再開の約束を撤回したことを指摘した[45]。一部のターリバーン指導者はBBCニュースに対し、女性教育の制限に反対していると述べた[45]。ターリバーンの決定は国際的に広く非難された[45]。禁止にもかかわらず一部の州では女子の中等教育が認められている[46][17]

政府

2021年8月17日のカーブル陥落直後、ターリバーン文化委員会の上級メンバーであるエナムッラー・サマンガニが女性に政府への参加を呼びかけた[47]。反対に、9月初めにはターリバーンは女性が政府の「高職位に就くことは許さない」として[48]、内閣における女性の参加を「排除」した[49]。9月7日にはターリバーンから男性のみの構成で臨時内閣が発表された[49][50]

医療

ターリバーンがアフガニスタンで権力を持つ以前は病院で男性医師が女性の治療が出来たが、男性医師が診察を口実に女性の身体に触れるのは許されないという法令がすぐに導入された[31]。女性医療従事者の減少で、多くの女性が診察を受けるために長距離移動が必要になり、産前クリニックのサービスは減少した[3]

カーブルでは一部の女性が自宅に非公式の診療所を開設、家族や近隣住民にサービスを提供したが、医療物資の入手が困難であり効果は限定的だった。治療不足のために長期の苦しみや若年死が多くの女性を襲った。経済的、意欲、マフラム(近親者)の支援がある家族はパキスタンで医療を受けることができた[31]

1996年10月女性の伝統的なハンマーム(公共浴場)の利用が禁止された。これは社交の場がイスラム教に反すると判断されたからである。これらの浴場は水道がほとんどない国では重要な施設となり、この禁止措置は国連が、衛生手段や医療を受けることを拒否された女性の疥癬や性感染症の増加を予測する理由となった[24]。アフガン系アメリカ人の作家ナスリン・グロスは2001年に、多くのアフガニスタン女性が神に祈ることができたのは4年前のことだとして、「イスラム教では生理後に入浴せずに祈ることを禁じている」からと述べた[51]

以前は女性専用の総合病院に入院できていたが1998年6月にターリバーンは女性が首都の総合病院へ入院することを禁止した。カブールで治療を受けられる病院は一つだけとなった[33]:71

ターリバーンの掌握後、女性医療従事者が安全上の問題やターリバーンからの嫌がらせを報告した。母体の保健状況は悪化し、多くの医師が乳幼児死亡率の増加を報告した[52]

2023年2月、ターリバーンはカブールとマザーリシャリーフの薬局に対し避妊薬や機器の販売停止を命じた[53]

医療分野における女性の参加禁止

2024年12月、ターリバーンの保健省は女性の看護および助産の訓練を禁止したと、ガーディアン紙の報道が確認した[54]。2024年2月の女性の基礎医療訓練を認可していたが破棄となった[55]NPR放送によると、保健省は「一部の州ではターリバーンが女性が男性医療専門家から治療を受けることを認めていない」ため、医療分野での女性教育の一般的な禁止からの免除を求めてロビー活動を行った[55]。ターリバーンによる女性の基礎医療訓練の禁止は人権団体からアフガニスタンの女性と子どもの健康と福祉に対して危険であると広く非難された。2020年のデータ、つまり2021年のターリバーン政権掌握前から世界で最も高い母体死亡率を記録している国の一つがアフガニスタンである[54][55]。例えば、ヒューマン・ライツ・ウォッチのヘザー・バーは「女性が男性医療従事者による治療が出来なくなり、さらに女性が医療専門職になるための訓練も禁止してしまえば、結果は明白です。女性は医療にアクセスできなくなり、その結果、命を落とすでしょう」[54]と述べている。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)は、この禁止措置について「極めて差別的で近視眼的であり、女性や少女の命を多種多様な場面で危険にさらしている」と述べた[56]

強制収容

女性の強制収容に伴う精神的ストレス、孤立、うつ病によって家族の調和は大きく損なわれた。1998年にカーブルの女性、または元住民160人を対象の調査では、97%が重度のうつ病の兆しを示し、71%が身体的健康状態の悪化を報告した[8]:6–13[24]。カーブル在住で作家のラティファは次のように書いている[31]

アパートは刑務所や病院のような雰囲気があります。沈黙が私たち全員に重くのしかかります。私たちはあまり何もしないので、お互いに話すこともあまりありません。感情を分かち合えずそれぞれ自分の恐怖と苦しみに閉じ込められています。みんな同じ黒い穴にいるので、はっきり見えないことを何度も繰り返す意味はあまりありません

ターリバーンは国内の美容院を閉鎖[57]マニキュアや化粧品は禁止された[58]

ターリバーンによる女性の文化的存在制限は複数の分野に及んだ。「女性」という言葉を含む地名は改変されその言葉は使われないようにされた。女性は大声で笑うことを禁じられ、見知らぬ人が女性の声を聞くのは不適切とされていた。女性はスポーツへの参加やスポーツクラブへの参加を禁じられた[59]

女性の奴隷制

2017年にターリバーンのメンバーが強制結婚、夫婦間の強姦、女性の奴隷化を容認しているとして非難された[60]

2001年8月26日、カーブルでターリバーンの宗教警察が女性を殴打する様子。この映像はアフガニスタン女性革命協会によって撮影された

罰はよく公の場で行われ、スポーツスタジアムや町の広場での正式な見世物、あるいは突発的な街頭の暴行として行われた。容赦はほとんどしなかったから市民は厳しい罰則を恐れて暮らした。法令違反で捕まる者はしばしば極度の暴力で扱われた[24]。以下が例である。

  • 1996年10月、女性がネイルニスを塗ったために親指の先を切り落とされた[24]
  • 1996年12月、ラジオ・シャリーアは、カブールの女性225人がシャリーアの服装規則違反により拘束、処罰されたと発表した[5]。判決は裁判所から言い渡され、女性たちは軽犯罪のため脚と背中を縛られた[61]。ターリバーンの幹部は女性たちに体を完全に覆い、シャリーアで義務付けられたヒジャーブ(社会の隔離)を守るよう注意させた[5]。違反があった場合、苦情を申し立てる権利はない[5]
  • 1997年5月、内務省から緊急給食プログラムの研究許可を得た5人の女性CARE International職員が、宗教警察のメンバーにより車両から強制的に降ろされた。警備員は拡声器を使って女性たちを侮辱し嫌がらせを行い、その後、長さ1.5メートル(ほぼ5フィート)を超える金属と革の鞭で打った[2]
1999年11月16日、カーブルのガジ・スポーツスタジアムでターリバーンによる女性「ザルミナ」の公開処刑。5人の子供の母親が夫を殺害した罪で有罪判決を受けた[62][63]
  • 1999年、カーブルのガジ・スポーツスタジアムで5人の子どもを持つ母親が、夫を殺害した罪で3万人の観客の目前で処刑された。(右写真)彼女は3年投獄され、処刑前に激しい拷問を受けたが娘(実際の犯人とされる)を守るために無実を主張することを拒んでいた[64]
  • ターリバーンの急襲によってある女性がアパートで非公式の学校を運営していることが発見されると、子供たちを殴り、その女性を階段から突き落とし(足を骨折させ)その後投獄した。彼らはターリバーンと法律に忠誠宣言に署名しなければ、家族を公然と石打ちにすると脅した[31]
  • アフガニスタンン出身の少女ビビ・アイシャは、部族の争い解決方法であるバードを通じて新しい家族に約束された。(バード: 加害者家族の女性を使用人や嫁として被害者の家族に渡す風習)彼女がバードの下で度々苦しむ暴力から逃げ、拘束している家族が彼女を見つけた際、ターリバーン指揮官は「村の他の少女らが同じことをしようとしないように」彼女を罰するよう命じた[65]。彼女は耳と鼻を切り落とされ、山中に放置されたが、生き延びた[65]
  • 働く女性は仕事を辞めるよう脅されている。従わなかったことで、2010年7月の22歳のホサイ氏殺害事件のように女性が射殺される事例が出ている[66][67]
  • 2013年、インドの作家スシュミタ・バナージーは、ターリバーンの命令に逆らったとしてターリバーン武装勢力に射殺された。彼女はアフガニスタン人の実業家と結婚し、アフガニスタンに移住したばかりであった。彼女は1995年にターリバーンによる2度の処刑から逃れてインドへ逃亡していた。ターリバーンからの脱出を題材にした彼女の小説は、インド映画としても撮影された[68]
  • 2021年7月12日、ファーリヤーブ州で女性がターリバーンの戦闘員に暴行され死亡、家が放火された。戦闘員グループのために料理をしなかったのが理由であった[69]
  • 2021年8月、アフガニスタン警察は、バルフ州でターリバーン過激派がタイトな服装と男性親族の同行を理由に女性を殺害したと報告した。ターリバーンはこの疑惑を否定し、事件の調査を進めていると述べた[70]

多くの処罰はターリバーン当局の個々の民兵によって承認が無いまま行われた。これはターリバーンの公式な政策では路上での女性を罰することに反していたからという。より公式な見解として、女性の不正行為に対する男性への処罰があり、これは家父長制社会の反映したものであり、男性は女性を支配する義務があるという信念の表れであった。マウルヴィ・カラマディンは1997年に「女性を直接罰せないため、タクシー運転手や店主を使って彼女たちに従わせる圧力をかけようとしている」と述べている。男性への罰の例には以下のようなものがある。

  • もしタクシー運転手が、顔を覆っていないか、マフラムがいない女性を乗せたら、運転手は刑務所行きとなり、夫は罰せられることになる。
  • 女性が川で洗濯をしているところを見つかると、イスラム当局に連れ戻され、夫とマフラムは厳しく罰せられた。
  • もし仕立て屋が女性の採寸をしているのが見つかった場合、その仕立て屋は投獄された[2]:156–157

2021年のターリバーン政権掌握以降、特に2024年の「反物乞い」法の成立により女性の拘束が増加して以降、ターリバーン運営の刑務所内でアフガニスタン女性に対する性的暴力、強姦、拷問の報告が多数報告されている[71]。ある事件では「ガーディアン紙は、女性のアフガニスタン人権活動家が武装した男たちによってターリバーンの刑務所で集団強姦と拷問を受ける映像証拠を目にした」とされている[72]

2021年以前の国際的な対応

1998年4月28日、パキスタンのペシャワールで、活動家たちがターリバーンに対する抗議活動を行った

国際機関による抗議はターリバーン当局にはほとんど影響力を持たず、彼らはイスラム法の解釈を優先し、国連の規範や人権法に縛られるとは感じていなかった[2]。1995年のターリバーンによるヘラート掌握後、国連はジェンダー政策が「民衆の蜂起からドナーコミュニティとのつながりを持つ責任ある政府へと成熟していく」ことを期待していた[24]。ターリバーンは国際的な圧力に屈せず、援助停止に対して冷静に対応した。

  • 1995年11月、ユニセフはターリバーン支配地域における教育への全ての援助を停止した。男女の教育における共学禁止が児童の権利条約に違反していると主張したためである。1995年に北京女性会議があり、この措置はユニセフが女性と子どもに関する主要な機関としての役割を確固たるものとする動きとなった[24]
  • 1996年には、主要な子ども介護者である女性とのコミュニケーションが最も困難だったためセーブ・ザ・チルドレン(イギリス)も支援を撤回した[24]
  • 国連事務総長ブトロス・ブトロス=ガーリは、アフガニスタン女性の地位について懸念を表明した[73]
  • 1998年、人権のための医師団による詳細な報告書は、その要約で次のように結論づけている「自分たち知る限り、世界のどの政権も人口の半分を事実上の徹底的かつ暴力的に自宅軟禁を強制し、身体的処罰の恐れで顔を見せること、男性の付き添いなしで医療を受けること、学校に通うことを禁止したことはない。...世界で、支配下にある人口の半分から雇用、教育、移動、医療を恣意的に奪い、これほどの貧困を生み出した政府や将来の政府を見つけるのは難しい」[8]:2–3
  • 1999年、アメリカ国務長官マデレーン・オルブライトは公に「私たちは被害を受けたアフガニスタンの女性や少女たちのために声を上げます...それらは犯罪であり、我々一人ひとりがそれを止める責任があるのです」[74]

2006年1月、ロンドンアフガニスタンに関する会議は包括的再建の枠組み、アフガニスタン・コンパクトの創設につながり、これには女性の扱いに関するベンチマークが含まれていた。コンパクトには次の点が含まれる:「性別:1389年末(2011年3月20日)までに、アフガニスタンにおける女性のための国家行動計画の完全な実施。アフガニスタンのMDGsに沿って、選挙・任命機関や公務員を含むすべての統治機関における女性の参加を強化」[75]。しかし、2008年6月11日のアムネスティ・インターナショナルの報告書は、アフガニスタンに関して女性への扱いが未達成の目標の一つであると指摘し「もはや約束不履行は許さない」と宣言した[76]

2021年9月、パキスタンのイムラン・カーン首相は、アフガニスタンでの女性教育禁止はイスラム的でないと述べ、指導部に包摂的かつ人権尊重を求めた[77]

2021年12月29日、アメリカ国務長官アントニー・ブリンケンリーナ・アミーリーをアフガニスタンの女性・少女人権特使に任命、国内の女性たちに対し支配的なターリバーンによる抑圧が激化していた時期に行われた時期に発表した[78]

2021年以降

女性の服装

2022年5月、勧善懲悪省は、アフガニスタンのすべての女性に対し、公共の場で全身を覆う服(ブルカまたは目以外を覆うニカーブアバーヤ)を着用することを義務付ける布告を発表した。この判決は女性親族が法律を遵守することを保証しない男性「後見人」に対して、罰金、懲役刑、または公務員の解雇などの執行措置が取られると定めていた。国連アフガニスタン代表部を含む人権団体はこの決定を強く批判した。この決定はイスラム首長国の国際的な承認の可能性に悪影響を及ぼすと予想されている[79][80]クリスティアン・アマンプールのインタビューで、第一副指導者シラジュッディン・ハッカーニはこの法令はあくまで勧告であり、アフガニスタンではヒジャブの着用が義務付けられていないと主張していたが[81]、これは現実とは矛盾している[82]。ハイバトゥラー・アクンザダ指導者を含む強硬派と現実主義者の間で、女性の権利をめぐる内部政策の対立が存在していると推測されているが公には団結した立場を示している[83]

教育と雇用

2022年7月、ターリバーンは財務省の女性職員に対し、女性を解任するために男性親族を推薦するよう助言した。最大60人の女性従業員が人事部から男性の家族を紹介するよう要請されたと報告している[84]

2022年10月まで高等教育大臣を務めたアブドゥル・バキ・ハッカーニは女性の大学進学を支持していたが、後任のネダ・モハマド・ナディームは女性の大学教育に反対している[85]

BBCの報道によると2025年までにターリバーン政権は大学から18の教育コースを中止し、そのうち6コースは女性学関連では「セクシャルハラスメントと人権」を含む、助産学のコース、ジェンダーと発達、コミュニケーションにおける女性の役割、女性社会学が中止になった[86][87]

ターリバーンはまた、「シャリーアとターリバーンの政策」に合わない懸念のある書籍680冊のうち、女性による著書約140冊を禁止とし、「化学実験室の安全」というタイトルさえも禁止した[87][86][88]

レクリエーションとスポーツ

2022年11月には、女性はジム、公共浴場、公園、遊園地への立ち入りが禁止された[89][90]

人間関係と生殖権

2023年2月、ガーディアン紙はターリバーンが避妊具への接点を制限し始めたと報じた。彼らは薬局に避妊薬の在庫を撤去するよう命じ、助産師を脅迫した。カーブルではターリバーン戦闘員が「避妊の使用と家族計画は西側の議題である」と述べた[53]

2024年3月、ターリバーンの最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダは、女性に対する鞭打ちと石打ちの刑を不倫の罰として復活させ「ターリバーンの活動はカーブルの掌握で終わったわけではなく、始まったばかりだ」と述べた[91]

2024年8月、ターリバーンは女性の単独移動や血縁関係のない男女の混在を禁止する法律を制定した。同時に、女性は公の場で常に体を覆うよう法律を制定し、マスクを着用し、服装は短く薄いものは禁止で、体の形状が出てはいけないと定められた。制定当時法律では女性はすべての他人の男性や非ムスリムの前でベールを着用すべきであり、女性が公の場で朗読、歌唱、朗読を聞かれてはならないこと、また血縁や結婚でない男性を見ることも禁止され、その逆もまた禁止されていた[92]

2026年に新しい刑法が制定され、骨折や開創を伴わない限り、夫が妻や子供に対して身体的罰を加えることを認めている。これはまた、夫の同意なしに親族を訪ねたり、夫の要求に応じて戻らない女性を犯罪と定めた[93]

アフガニスタンでは、女子(および男子)の児童婚が合法である。2026年5月、アフガニスタン司法省は法令第18号を発布し、一部には、少女が思春期に達してもこの件について沈黙している場合、それは結婚への同意とみなせると規定されている[94]

国際的な反応

2025年1月、国際刑事裁判所(ICC)は、ターリバーン最高指導者ハイバトゥラー・アクンザダと最高裁判事アブドゥル・ハキム・ハッカーニに対し、アフガニスタン女性や少女の移動の自由、身体の管理権、教育を受ける権利を剥奪、人道に対する罪を犯したとして2件の逮捕状を発行した。 そして、2021年以降はいわゆる抵抗や反対派は殺人、投獄、拷問、強姦、その他の性的暴力によって残酷に抑圧を受けている。ICC加盟国は、自国領土内にいる指名手配者を逮捕する義務がある[95]。2025年7月8日、ICCはアクンザダとハッカーニに対する逮捕状を示したが、ターリバーン報道官ザビフッラー・ムジャヒドはこれを拒否し、ターリバーンはICCを一つの組織として認めていないと述べた[96]

関連項目

脚注

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