ダリストロイ
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20世紀初頭、コリマ川流域で砂金が発見されて以降,同地域へ開発の機運はあったが、峻厳な自然環境が壁となり滞っていた。
当初、ソ連は金生産を重視していなかったが、1927年にスターリンが金産業総管理局長官アレクサンドル・セレブロスキーに命じてアメリカ・カルフォルニアの金鉱を調査し、これを範として国家的な極東の金鉱開発に乗り出す。
1928年にはナガエヴォ港(後のマガダン村,1939年にマガダン市に昇格)が建設され、採金業の根拠地として発展した。
1931年11月の党中央委員会決定と労働国防会議決定より組織され、まもなく内務人民委員部(後のソ連国家保安委員会KGB)へ属した。
1932年、初代長官エドゥアルド・ベルジンがナガエヴォ港に赴任し、ここを本部として発足した。ベルジンは採金師(スタラーチェリ)に高い報酬、囚人に刑期短縮や特配食といったインセンティブを与えることで金増産に成功し、レーニン勲章を受章する。
1933年、ナガエヴォ港とコリマ上流域を結ぶコリマ街道が完成。
1937年、エドゥアルド・ベルジンが失脚。あわせて周辺幹部も粛清される。新長官としてパヴロフ、北東矯正労働収容管理部(USVITL)部長スチェパン・ガラーニンが就任。
ベルジン長官時代のインセンティブが有名無実化し、14時間労働、月休1日制となり、生産効率のあがらない囚人はサボタージュとみなされ死刑が命じられた。ガラーニンが率先して銃殺を行い、処刑された囚人はコリマ全体で約26,000人とみなされる。
1938年、ガラーニンが内部告発により失脚。
1951年、延べ11か所にラーゲリ支所を開設し、ダリストロイの総面積は、には3,000,000平方キロメートルに達したといわれる。
1932年に1,100人で始まった囚人数はスターリンの粛清により急激に増え、1952年には199,726人のピークに達し、その後減少した。 1953年のスターリンの死亡によって、ダリストロイは3機能に分割されて、しばらくしてからは経済的な活動を主にすることとなる。
船舶
囚人護送などに用いられる何隻かの船舶を所有していた。[3]
- ヤゴーダ号、後にダリストロイ号と改名
- ジュルマ号 (SS Dzhurma)
- クル号
- フェリックス・ジェルジンスキー号
- インディギルカ号
- ソヴィエツカヤ・ラトヴィア号 (MV Sovetskaya Latviya)
