ダンバー
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ダンバー
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|---|---|
ダンバー・ハイ・ストリートにあるダンバー・タウン・ハウスとマーキャット・クロス | |
イギリスにおけるダンバーの位置 | |
| 面積 | 3.01 km2 (1.16 sq mi) [2] |
| 人口 | 10,270人 |
| - 人口密度 | 3,412/km2 (8,840/sq mi) |
| 英式座標 | NT678789 |
| - エディンバラ | 26 mi (42 km) |
| - ロンドン | 325 mi (523 km) |
| カウンシル・エリア | |
| レフテナンシー・エリア | |
| 構成国 | スコットランド |
| 国 | |
| 郵便地域 | DUNBAR |
| 郵便番号 | EH42 |
| 市外局番 | 01368 |
| 警察 | |
| 消防 | |
| 救急医療 | |
| 英国議会 |
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| スコットランド議会 |
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ダンバー (英語: Dunbar[dʌnˈbɑːr] (
音声ファイル)) はスコットランドの南東部、イースト・ロージアンの北海岸にある町である。エディンバラから50キロメートル東、ベリック・アポン・ツイードの北にあるイングランドとの国境から50キロメートルほどのところにある。著名な探検家・博物学者・自然保護活動家であるジョン・ミューアの生地である[3][4]。
語源

Dunbar(ダンバー)という現在の名称はゲール語で「頂上の要塞」(現代のスコットランド・ゲール語で Dùn Barra)を意味する語からきている。おそらくはカンブリア語で同じ意味になる din-bar をゲール語化したものだと考えられている。17世紀の『聖ウィルフリッドの生涯』(Vita Sancti Wilfrithi) に出てくる Dynbaer という形が証拠としてあげられる[5][6]。
先史時代
2003年、宅地開発に先立ってCFA Archaeologyが実施した発掘により、青銅器時代末期から鉄器時代初期(紀元前800-540年頃)の人物の遺骨が発見され、この時期から人が住んでいたことが示唆されている[7]。キャッスルパーク敷地内にある地元のランドマークであるキャプテンズ・キャビンがかつてあった場所でHeadland Archaeologyが実施した考古学発掘調査によると、2000年にわたる人間の継続的な活動を反映した考古学的な形跡が見受けられる[8]。初期の集落はローマ人にはヴォタディニ人として知られていた人々が集まる中心地であった[9]。
初期の歴史
ダンバーは6世紀にアングル人のノーサンブリア王国が拡大した時にその配下に含まれるようになり、680年頃に最初に文字資料に現れた[10]。
2003年の考古学発掘で32個の石櫃からなる墓所も見つかった。この種の墓所は初期キリスト教時代(紀元4-8世紀頃)にさかのぼり、スポット交差点の東側やダンバースイミングプールなどを含むダンバー周辺の複数の地域で見つかっており、この時代から集落が存在したことが示唆される[7]。
影響力のあるノーサンブリアの修道士・学者であった聖カスバートは630年頃におそらくダンバーあたりで生まれたと考えられる。まだ子どもの頃に羊飼いとして雇われていたが、ある夜に聖エイダンの魂が天使によって天に運ばれるまぼろしを見て、その後オールド・メルローズの修道院に入って修道士となった[11]。
この頃ダンバーは王の村区で、司教ウィルフリッドはここの監獄に入れられていた。ノーサンブリア王の王領として、この地域の経済は食物年貢の徴収や王国の北側(現在のスコットランド)の行政業務を中心にまわっていた。王の上級役人である代官(のちのシェリフ)の事務所があった[12]。
スコットランドの征服
デンマーク人やノース人がノーサンブリア南部を攻撃したため王国の勢力が弱まり、北部も同様にスコットランドに併合されてもおかしくない状態になった。ダンバーは9世紀にスコットランド王ケネス1世に焼き討ちされ、次の世紀にはスコットランドの支配が強まり、1018年のカラムの戦いの後でマルカム2世にロージアンが譲渡された時にダンバーもとうとうスコットランドの一部として認められた[13]。
ノーサンブリア伯でマルカム3世のいとこであるゴスパトリックが1972年に追放された際、ダンバーはマルカム3世の好意でゴスパトリックに供与された。マルカム3世は南東側にあった権力の空白を埋める必要があり、ゴスパトリックはノーサンブリアの土地を取り戻す計画をするための基盤になる場所を求めていた。ゴスパトリックはダンバーで一家を構え、15世紀まで家長がダンバー及びマーチ伯の地位を占めることとなった[14]。
中世末期から現代まで
ダンバーの町は男爵領自治都市となり、さらに1370年に勅許自治都市となった[15]。町の東西をつなぐウサギ養殖穴は王室に食料を供給するためのものだったが、1589年に嵐と風に巻き上げられた砂が西側の穴を破壊した[16]。
1296年と1650年に大きな戦いがあった。後者は三王国戦争中にスコットランドのカヴェナンター軍とオリバー・クロムウェル率いるイングランド議会派が衝突した戦いであった。スコットランド軍が敗北し、君主制が倒れてスコットランドが占拠された[17]。
1855年にキャッスル・パーク・バラックスが完成し、永続的に軍が駐留することになった[18]。1976年にはダンバー・ロイヤル・ブリティッシュ・リージョン・パイプ・バンドが結成された[19]。
気候
ブリテン諸島のほとんどの地域同様、ダンバーは海洋性気候(ケッペンの気候区分:Cfb)で、夏は涼しく冬は穏やかである。スコットランドで最も晴れが多く乾いた気候の地域のひとつで、日照時間が1450時間ほど、毎年の降水量は600mmである。気温は1990年8月の31.3℃が最高、1982年1月の-12℃が最低である[20][21]。
| ダンバー(1991–2020平均)の気候 | |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
| 平均最高気温 °C (°F) | 7.3 (45.1) |
7.9 (46.2) |
9.5 (49.1) |
11.5 (52.7) |
14.1 (57.4) |
17.0 (62.6) |
19.1 (66.4) |
18.9 (66) |
16.9 (62.4) |
13.5 (56.3) |
10.0 (50) |
7.7 (45.9) |
12.8 (55) |
| 日平均気温 °C (°F) | 4.8 (40.6) |
5.1 (41.2) |
6.4 (43.5) |
8.2 (46.8) |
10.6 (51.1) |
13.5 (56.3) |
15.4 (59.7) |
15.3 (59.5) |
13.6 (56.5) |
10.5 (50.9) |
7.3 (45.1) |
5.0 (41) |
9.7 (49.5) |
| 平均最低気温 °C (°F) | 2.3 (36.1) |
2.3 (36.1) |
3.3 (37.9) |
4.9 (40.8) |
7.1 (44.8) |
10.0 (50) |
11.7 (53.1) |
11.7 (53.1) |
10.2 (50.4) |
7.6 (45.7) |
4.6 (40.3) |
2.3 (36.1) |
6.5 (43.7) |
| 降水量 mm (inch) | 48.4 (1.906) |
38.8 (1.528) |
39.1 (1.539) |
34.3 (1.35) |
45.6 (1.795) |
61.9 (2.437) |
64.1 (2.524) |
61.5 (2.421) |
50.1 (1.972) |
63.4 (2.496) |
58.3 (2.295) |
56.6 (2.228) |
622.1 (24.492) |
| 平均降水日数 (≥1.0 mm) | 10.2 | 8.4 | 8.6 | 7.6 | 9.0 | 10.0 | 10.7 | 10.1 | 8.7 | 11.0 | 11.2 | 10.9 | 116.4 |
| 平均月間日照時間 | 59.0 | 81.9 | 116.8 | 155.7 | 196.9 | 169.0 | 174.6 | 160.7 | 128.7 | 97.8 | 73.4 | 51.5 | 1,466 |
| 出典:Met Office[22] | |||||||||||||
スポーツ
教育
映像作品への登場
教会建築

ダンバーの町はスコットランド国教会ダンバー教区に含まれる[36]。1987年1月3日、火災で町の歴史的教区の大半が破壊された。外壁程度しか残らなかったが、教会は内装を現代的なものにして修復された[37]。
ジェイムズ・ギレスピー・グレアムは1818年から1821年にかけて、バーハウス採石場から切り出した地元の赤い砂岩で教区教会を建築した[38]。ハイストリートの郵便局の裏にある教区教会ホールは1910年に建てられたものであり、ステンドグラスはエディンバラでシッスル礼拝堂ができた時に不要になったためセント・ジャイルズ大聖堂から外して運ばれたものである[38]。ダンバーメソジスト教会はスコットランド太鼓のメソジスト教会で、1764年に建てられた。ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレーは21回にわたってこのメソジスト教会で説教をしている[39]。
著名人
1000年以前
- 聖ウィルフリッド (633–709) - 7世紀から8世紀初頭のイングランド人の主教・聖人であり、ダンバーで収監されていた[40]。
- 聖カスバート (634–687) - ノーサンブリアの教会で早くから福音伝道活動をしていた聖人でリンディスファーンの司教[41]。ノーサンブリアは当時、イギリス及びより広くヨーロッパ地域にキリスト教の教えを伝えるにあたって主導的な役割を果たしていた[42]。カスバートはダンバーで生まれて最初は地元の貴族の一家に育てられ、それから当時の上流階級の伝統に従い、メルローズの親戚か盟友であった一族に預けられたとしている著者もいる[43]。
1001-1500
- ブラック・アグネス (1312–1369) - ダンバー伯夫人で地元の民話のヒロイン[44]。
- スコットランド王妃ジョウン・ボーフォート (1404–1445) - スコットランド王ジェームズ1世の妻で、夫の死のすぐ後、息子であるジェームズ2世が未成年の間はスコットランドの摂政をつとめたが、貴族との間の権力闘争に巻き込まれた。絶望してダンバー城に避難したが、そこで結局敵に包囲され、ダンバー城で1445年に死亡した[45]。
- オールバニ公アレクサンダー・ステュワート (1454–1485) - スコットランド王ジェームズ2世とメアリー・オブ・グエルダースの次男でオールバニ公、マーチ伯、アナンデール卿及びマン島領主、スコットランド国境管理官 (Warden of the Marches)であり、こうした地位により自らが所有・居住していたダンバー城を中心に国境の東部及び西部に相当な影響力を有していた。兄である王ジェームズ3世からスコットランドの支配を奪おうとしたが、うまくいかなかった[46]。
- オールバニ公ジョン・ステュワート (1482–1536) - オールバニ公アレクサンダー・ステュワートの一人息子でスコットランドの事実上の支配者であった。スコットランド及びヨーロッパにおいて力のあった軍人・外交官・政治家であり、父が失敗したことをやり遂げてスコットランド摂政となり、フランスのオーヴェルニュ及びロラゲ伯となった後、父が有していたマーチ伯も相続し、父同様ダンバー城をスコットランドにおける自らの権力の中心とした[47][48]。
1501-1900
- 第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーン (1534–1578) - スコットランド女王メアリーの3番目かつ最後の夫でダンバー城主[49]。
- ジョン・ミューア (1838 – 1914) - 博物学者・自然保護活動家で、のちにアメリカ合衆国に移住した[3][4]。
- 初代ランシマン伯ウォルター・ランシマン (1847–1937) - 船主で一匹狼の自由党政治家、ダンバー出身[50]。
- レジナルド・ウィンゲイト (1861–1953) - 初代準男爵、軍人、植民地行政官、「イギリス・エジプト領スーダンの作り手」スーダン総督 (1899–1916)、駐エジプト高等弁務官 (1917–1919)、ヒジャーズ軍事作戦司令官 (1916–1919)であり、長期間イギリス軍の将軍をつとめ、長くダンバーに住んでいた[51]。




